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 それからの日々はあまり記憶がありません。目の前の家族……年老いた両親と幼い子供達を食べさせていく事に必死だったからです。父は庭に畑を作って瓜や芋などを育てていましたが、母は、子供達の世話が大変だ、家事が忙しい、体調が悪い、等といって、外で働こうとはしませんでした。妻が嫁いできて以来、家の中の事は全て妻が行い、母は楽な暮らしに馴れてしまったのだと思います。時々娘たち……私の姉達の嫁ぎ先まで出向いて、金の無心などをしていました。



 そして私は、そんな家族の生活を立て直そうとしました。幸い以前の勤め先は無事に残っておりましたので、そちらに頼み込み、出征前とはかけ離れた地位ではありますが、職を得る事が出来ました。


 しかし出征期間が比較的長かった私は、中々社会復帰する事が難しかった。新しい環境に中々馴染めず、戦争の記憶も強く夜もあまり眠れず、職場に居場所を見いだせない為、趣味である武道に没頭するようになりました。家庭の事に目をかけてやれず、子供達の事は両親に任せっぱなしとなりました。


 今思えば、妻が消えた心の穴を何かで埋めようと必死だったのだと思います。子供達は二人とも、当り前ですがどことなく妻の面影があり、けれども彼女ではなく、自分勝手な事にそれが辛かった。


 特に娘は、初めて見たときにはもう8歳。どう接していいのか、わからなかった。




 そんなある日、わたしは病院にいました。

 髪が総白髪になった以外、私はこれと言って体調を崩しませんでした。収容所での赤痢が最後です。その日は、視力が弱くなってきたので眼鏡を作ろうと思い、病院を訪れました。


 総合病院で受付を済ませた時、私は強烈な匂いを感じました。

 強烈な匂いとは、その匂いが強い訳では無く、強烈な記憶を呼び覚ました、という意味です。


 あの、花の香りが、漂ってきたのです。妻の、あの香りが。


 信じられない思いがして、私は周囲を見回しました。鼓動が激しく胸を打ち、肋骨を突き破るのかという勢いでした。妻がすぐにでも、病院の中に姿を現すような気持ちになりました。


 急いで周りを捜しました。しかし彼女はいません。それこそ、私には信じられない思いでした。彼女を抱きしめた時に嗅いだ香り、戦地で常に私を包んでいた香り、それが今、漂っているのです。なのに妻がいないなんて、そんな事はない。

 

 私はその漂ってくる香りを、辿たどる事にしました。気付けばそれは、とある病室から香ってきました。



 入院病棟の個室の前。もちろん、知らない人の名前。男性です。

 私は呆然と立ち尽くしました。

 迷った末、ノックをしました。返事がありません。

 恐る恐る扉を開けてみると、若い、男性が眠っていました。



 そして彼の部屋には、先ほどの妻の花の香りが漂っていました。


 そして彼自身が、縁取られていました。



 ここがね、上手く説明出来んのですわ。人間が縁取られている、というのがどう言う事か、私にもよく分かりません。ピントがぼけてると言うのか、レンズでこう、拡大された様にハッキリと見える、というのか、何か透明な光で覆われている、と言うのか。



 つまりですね。彼が独特の何かをまとっていた、と言う事です。

 言葉には出来ない、何かを、まとっていた。



 戸惑った私は、しばらく彼を眺めた後、黙って扉を閉めました。

 一体何がどうなっているのか、頭では分からなかったからです。



 しかし心の中では、直感していた。私は、アレをやらねばならない。




 閉めた扉の前でたたずんでいると、一人の老女が近づいてきました。

 彼女は汚い着物を着て、髪もくしを入れていない様な、決して身だしなみに気を使っているとは思えない女性でした。同じ年代でも私の母は、身だしなみにとにかく時間と金をかける女性でしたので、そのあまりの違いに少し度肝を抜かれた程です。


 けれども彼女はそんな私の様子にお構いなしに、低い声でいいました。



「あんたは、自分の仕事をやりなさい」



 彼女のその厳しい口調と鋭い眼光に、私は後ずさりました。一瞬、怪しい人物だと罵られているのかと思いました。しかし彼女の様子からして、どうやらそうではないらしい。



 この老女は、私がこの部屋の前に立っている、理由を知っている。

 そう直感しました。


 

「どうやって?」



 そう尋ねると、彼女は眉根を寄せました。


「それは、あんた自身がよく知ってるだろ」



 今度は私が眉根を寄せる番でした。私は実際、何も知りません。だって妻は、部屋に患者以外誰も入れなかったのだから。

 しばらく考え込んだ末、唯一、思い当たる事が浮かびました。それ以外は何も思い浮かびませんでした。



「一緒にいて、見てくれないですか? 正しいかどうか、不安なんです」


 私がそうお願いをすると、老女は驚いたように目を見開きました。そしてまたすぐ、不機嫌そうな表情に戻りました。



「あたしが見たって。何も分からないし、正しいかなんて知らないよ」

「それでもいいです」



 そう答えると、彼女は溜息とも舌打ちともつかないものを口から出しました。そして黙って、部屋の扉を開けました。


 若い男性患者は、先ほどと同じように、静かに眠っていました。



 私は彼の傍らに立ち、見下ろしました。まだ20歳前後に見えます。大変、顔色が悪い。ここが何科の病棟かは知らないが外科では無いらしい、と何となく思いました。



 そして部屋に漂う妻の香り。彼女の気配を感じようと、私は必死でした。

 


 だけどね、美代子。私は、お前のやり方を知らないんだよ。

 お前の歌しか、知らないんだ。



 私は前屈みになり、彼に顔を近づけました。そして、そっと歌を歌いました。

 それは妻がよく、口ずさんでいた歌でした。


 彼女が庭の手入れをしている時に、二人で歩いている時に、夜、二人でじゃれあいながら寝ている時に。

 そんな時によく彼女が歌う歌で、歌っている時の彼女はどこか恍惚としていました。そして歌い終わると必ず、私を見て悪戯っぽい表情をするのです。「あなたの前でしか歌えないわ。だって恥ずかしいですもの」彼女はそう言いました。




 途中で、私は感極まって涙が零れ落ちました。

 歌い終わり、私は黙って頬の涙を拭いました。あまりに無防備になった自分が恥ずかしくて、老女を招き入れた事を大変後悔しました。自分が頼みこんで部屋に入れたくせに、です。


 しかし彼女はそんな私に頓着せず、言いました。



「さあ、出よう」


 そう言うとサッサと部屋を出て行きます。私は慌てて後を追おうとしました。咄嗟に患者を振り返ると、彼の顔色は良くなっているいるようでした。



「あれで良かったんだろうか?」


 彼女を追いかけながら尋ねると、老女は答えました。


「さあね。あたしに聞かないでくれ。あたしはあんたみたいに出来る訳じゃない」

「でもあなたは、私に『自分の仕事をしろ』と言ったではありませんか?」



 すると老女は立ち止り、私を見上げて言いました。



「それぐらいは分かるよ。でも、それだけだ。あたしは昔から、人よりちょっと勘がいいだけなんだ。余計な期待はしないでおくれ」

「でも私は何も分からない」

「知らないよ、そんな事は。分からない割にはやってたじゃないか。あたしはあんたの助けにはならないよ。あーあ、こんな事なら手を出すんじゃなかった」


 老女は忌々しそうに言いました。


「あたしはお人よしなんだ。そのせいで、いつも割にあわない事ばかりが身に起こる。人がよくって、損をするんだよ」



 到底人がいい様にも見えず、決して損ばかりして来た様にも見えない老女の顔つきを眺めながら、私は最後の質問をしました。



「私には、本当に何も見えない。あなたには見えるのか? 私の妻は死んでしまった。とても美しいんだ。元々は、彼女の能力ちからなんだ」



 すると彼女は、探る様な目つきで、私をジッと見つめました。



「あたしが、その女房を見たらどうなんだい? そうしたら女房は居て、あたしが見なかったら、女房はあんたの傍にはいないってことかい?」

「……」

「見えるモノは居て、見えないモノは居ない。そう思うならそれでいいじゃないか。あんたに見えないなら、あんたにとっては居ないんだよ」


「私はそんな禅問答がしたいんじゃない。妻の霊が、私の傍にいるのかどうかを知りたいんだ」

「見えない」



 老女は言い切りました。



「見えない。元々あたしには、滅多に見えない。でもそれは誰にとっても、何の答にもなりはしない。あんたがするべきことはただ一つ。自分の仕事をおやり。自分にできる事を、最大限のおやり」



 そして彼女は初めて、その日に焼けて黒ずんだ、カサカサの肌の顔を歪ませて、笑ったのです。



「あんたの女房も、そうだったんだろ? 自分に出来る事を、精一杯やった。違うかい?」



 私は、二人で交わしたあの会話を思い出し、一瞬息が詰まりました。



 これが初めて、私が人を癒した人の事です。

 私は妻の様に、患者の体を治したのです。一瞬で、触れる事も無く治したのです。



 歌を歌う事によって。


 


やっと、不思議世界に辿りつきました。

ここまで読んで下さった方は、「サイな…」の、どのキャラクターに関わるお話か分かると思います。最後に出しますので、お楽しみに❤


でも、前作をお読みで無い方でも楽しめる様に、独立した中編にしています。あと数話、お付き合いください。ありがとうございます。



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