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この家族を守る為なら、どこへでも行ける。
そう思った私が飛ばされた先は、東南アジアの激戦区でした。
あなた、戦争の話はご存知ですか?
そうですか。それはそうでしょうなぁ。あなたみたいにお若い方は、もう身近に、あの戦争を体験された方などおらんでしょう。いても、戦後の教科書に墨を塗った、いうお話でしょうなぁ。え? ギブミーチョコレート? あなたのおじいさんが? あはは、そうですか、それはいい。いいですねぇ。ほお、押し入れの中で? ああ、兄弟に見つかると腕ずくで奪われますものね。元気ですねぇ、可愛らしい。さぞかし美味しかったでしょう。丁度ね、私の子供がそれくらいの歳でした。子供達は皆、腹を空かせていた。
兵隊も、腹を空かせておりました。
例えばです。話がちょっと反れますが、聞いて下さいますか?
戦地で、イギリス軍の集中砲火を何日も浴びましてね。私達は弾豪の中に閉じ込められました。
何日経ったか分かりませんが、ある日私達は気付きました。私達の隊以外、周囲は全滅してしまっているのです。私達の弾豪だけが、運良く、爆弾の投下を免れていました。周囲の弾豪の中は、仲間の死体で埋め尽くされていました。
そこから更に何日も、攻撃が続く訳です。私達は弾が切れ、前進する事も後退する事も出来なくなりました。食料も底をつき、全員が飢えました。もうここで死ぬんだ、と思いました。
もう一度、妻に会いたいと思いました。
情けない事にね、子供よりも妻、だったんですよ。
実際、毎晩毎晩、彼女の夢ばかり見とりましたから。
あの笑顔に包まれたい、と願いました。その為なら何でもする、とね。
それに死ぬと思ったら、なんだか悔しくなりましてね。一矢報いてやる気にもなりました。
でもどうせ一矢報いるのなら、捨て鉢にやるのではなく、ほんの僅かでも仲間の未来に繋げたい。
私は上官に申し出ました。
「後退するしかありませんが、弾が無くてはそれも無理です。自分が、敵から弾を奪ってきます」
上官は度肝を抜かれ、どうやって、と聞いてきました。
「自分一人で、行ってきます。夜だとかえって警戒が強まるでしょうから、不意を狙って昼間、昼食時を狙って行きます。弾倉庫を見つけ、奪ってきます」
とても遂行可能な作戦とは、誰もが思えませんでした。しかし皆で考えても、他に手段が思い浮かびません。上官が言いました。
「よし、わかった……しかし俺も行く」
私達二人は、敵の昼食時を待ちました。そして決行すると言う時、上官が私に囁きました。
「いいか。どんな事があっても、弾だけ狙え。他の物には目もくれるな。注意が反れた瞬間、この作戦は終わりだ。皆が死ぬ。わかったな? 他の物は、見るな」
他の物、とは、食料の事です。
お昼のその時間は、敵の陣地は食事の匂いで満ちていました。それに気を取られるな、と言うのです。頭では分かっていても、これは本当に苦しい事でした。私達は飢えていたからです。
そして私に言い聞かせている上官の眼も、必死で、飢えていました。その言葉は、彼自身に対する戒めだったと思います。
こうして私達は奇跡的にも無事、弾薬を手に入れる事が出来、皆が一命を取り留めた訳です。
しかしそこから先の敗走も、それはまあ、地獄でした。
そもそも日本が戦争に負けた事、知らんかったのですから。
まず、当り前に食べ物が、ない。ジャングルのネズミを食べながら、川を腰までつかって進みました。すると腹を下す。皆、垂れ流しです。
疲労と飢えと腹痛で、頭が朦朧とする。すると正気を失う。
隊を組んで進んでいると、遠くの方で叫び声が聞こえる。続いて、爆発音。
すると皆が思う訳ですよ。「ああ、また一人、仲間が自害したな」
辛すぎて、耐えられなくなった者が、手りゅう弾を抱いて自爆するんです。
そんな音を聞きながら、歩みを止める事無く進んで行きました。
その頃になると私は、夜のみならず昼間でも、妻の夢を見るようになりました。
彼女が私の傍らにいる気がして、彼女の息遣いが聞こえる様でした。彼女はいつも微笑んでいました。
ですから私は極力、そういう状態を作ろうと自ら意識を飛ばし、妻を感じていたいと願ったのです。地獄と言う現実からの、逃避です。一瞬でも夢の中を歩く事が出来て、それは僅かながら、私の苦痛を和らげてくれました。
皆、同じ様な状態だったと思います。心に家族を思い浮かべ、愛する人を思い浮かべて、毎日息を吸う。それを出来た人間だけが生き残れたのだと思います。
疲労困狽の日々が続いたある日、仲間の一人が私の目の前で座り込みました。
「もう、俺は歩けない。先に行ってくれ」
「立てよ」
「無理だ。行け」
それを聞いた私は、彼が持っている荷物を指さしました。それは、我々兵隊の命綱とも言うべき道具が僅かながら入っており、決して身から離すな、というのが常識でした。それを手放すと言う事は、死を意味するのです。
「それを捨てろ」
そう言うと、彼は驚愕し、動揺しました。
「何を言ってるんだ。出来る訳無いだろ」
「いいから、捨てろ」
「そんな事をしたら、俺は死んでしまう!」
「このまま座りこんでいても死ぬだろう。だったら一歩でも前へ進め。荷物を減らすんだ。身軽になれ。それを、捨てろ」
呆然とした彼は、散々悩んだ末、その荷物を降ろしました。私はそれを、待ちました。
すると、立てるようになるんです。僅かな荷物ではありましたが、疲れ切った体には大きな重りだったのです。それぐらい、我々は限界でした。
それでも前に、進みました。
命綱を捨ててでも、前に進む。
その後、同じように座りこむ部下達に、私は同じ指示を出し続けました。彼らを一歩でも、前へ歩かせる為です。ゴールの見えない道のりですが、置いて行く訳にも、皆が立ち止まる訳にもいきませんから。
ただ生きる。ただ、その為に。そんな日々が、何カ月も続きました。
そしてある日。
やはり同じ様に、荷物を捨てる様に指示を下した相手に。
私は刺されました。
彼はね、既にパニックになっていたのです。ずっと、見えない敵や見えない声、死んだ仲間の姿や声が聞こえる、追いかけてくる、自分を責めている、と言い続けていた男でした。
荷物を捨てるように言い渡した私が、彼に死刑宣告をした様に見えたのでしょうね。
普通我々兵隊は、戦地で上官から死ぬように命令されれば、それを遂行するような集団です。でも私は、常日頃から、例え一人になっても生き残れ、と彼らに言い聞かせてきた。
まさかそれが、部下に刺される事に繋がるとは思っていも見ませんでした。
いや、彼の中では、繋がっていなかったのかもしれない。
私は、死にました。
そう。敵の弾や爆弾をくぐりぬけてきた私が、味方のナイフ一突きで、命を落としたのです。
目の前で、妻の笑顔が鮮やかに蘇りました。
……暗い! 暗すぎる!
この小説の主題は、ここでは無いのです。だからこんな暗い部分は一気に飛ばします。すみません、もう少しだけお付き合いください。