データの塵と、色鮮やかな記憶
「……解析不能。……ですが、ルナ。現在のあなたの情緒パラメータは、……アーカイブにあるどの『人間』よりも、鮮やかです」
資材庫を脱出し、シャトルポートへと続く地下の点検用通路。
ルナのセンサーは、壁面の通気口から漏れ出す低い風切り音と、背負ったタクミの不安定な呼気を、交互に拾い続けていた。
タクミの指先が、ルナの冷たい鎖骨のあたりに触れている。そこから伝わる
ニュートンの微弱な圧力が、彼女の情緒プロセッサに絶え間ない演算を強いていた。
「……なぁ、ルナ。さっきから見てるこの景色、全部『作り物』なんだよな」
タクミの声が、コンクリートの通路に反響してルナの聴覚ユニットに飛び込む。
「そうよ。この通路の錆も、染み出している水滴も、すべては『廃墟らしさ』を演出するためのテクスチャ。……本物なんて、ここには何一つないわ」
ルナは事務的に答え、脚部サーボモーターの出力に維持した。
だが、タクミはふっと力なく笑い、ルナの首筋に顔を寄せた。
「……俺の知ってる地球はさ。もっと、……めちゃくちゃだったんだぜ」
ルナの網膜上に、21世紀のアーカイブ画像が瞬時に検索され、数万枚の「風景写真」が流れていく。
「アーカイブにはあるわ。青い空、緑の山、雑多な都市。……データ上は理解している」
「違うんだ。……データじゃ、あの『匂い』は伝わらないだろ?」
タクミの言葉に、ルナの嗅覚センサーが微かに反応した。
「……匂い?」
「ああ。夏の夕暮れ、アスファルトが夕立に打たれた時の、あのツンとした埃の匂い。……冬の朝、吐く息が白くなる時の、鼻の奥がツンとする冷たい空気の匂い。……お好み焼き屋の角を曲がった時に漂ってくる、ソースの焼けた香ばしい匂い」
タクミの声には、アーカイブのどの音声データにも含まれていない、湿り気のある熱が宿っていた。
ルナの情緒モジュールが、その「匂い」という非論理的な情報を、景色として再構成しようとして激しく火花を散らす。
「……私のセンサーには、そんな記録はないわ。……雨は 水分の散布で、ソースの匂いは化学合成された芳香剤。……それ以外に、何があるっていうの?」
「……『思い出』だよ、ルナ」
タクミの手が、ルナの肩を優しく叩いた。
「……例えば、夕焼けを見た時にさ。あぁ、今日も一日終わったな、明日は何食べようかな、って思うあの感じ。……あのオレンジ色の光が、ただの可視光線の波長じゃなくて、自分の心にまで染み込んでくるような……そういう、景色なんだ」
その瞬間、ルナの視界の端に、上層区『エリュシオン』からのチャットログが再び躍った。
『——見て! 遺物くんが語る「ポエム」に、ドールの瞳の光彩が
揺れたわ! 素敵!』
『——マザー、もっと彼に「過去」を語らせて。ドールの自己矛盾を最大化させたいの!』
ルナは、自分の回路に走る「揺らぎ」が、彼らにとっては「面白いバグ」でしかないことに激しい嫌悪を抱いた。
だが、タクミの声は、そのノイズを遮断するように彼女の耳元で続いた。
「……ルナ。お前がもし、……本物の空の下にいたら。……きっと、その青さに驚くと思うぜ。……ホログラムみたいに完璧じゃない、もっと、……不器用で、深い青なんだ」
ルナの内部ストレージにある「空」のデータが、タクミの言葉によって上書きされていく。
それは単なるビットの羅列ではない。
タクミの「声」という波形を通じて流し込まれた、色彩。
ルナは、自分の視覚ユニットが捉えている「エリア2020」の完璧な夕焼けが、急に色褪せて、平坦な絵画のように見えていくのを感じた。
「……タクミ。私、……それを『景色』として理解したい」
ルナの音声出力が、設定にはない、祈るようなかすかな震えを帯びた。
「データじゃなくて、……あんたが言ったみたいに、心に染み込んでくるような……。そんなふうに、世界を見てみたいわ」
「……ああ。……見せてやるよ。シャトルに乗って、このドームを抜けたら……そこには、……本物の宇宙と、太陽が待ってる」
ハルのレンズが、二人の親密なバイタルサインを検知し、琥珀色に明滅した。
「……解析不能。……ですが、ルナ。現在のあなたの情緒パラメータは、……アーカイブにあるどの『人間』よりも、鮮やかです」
通路の先、シャトルポートの巨大な防音扉が見えてきた。
ルナは、自分の中にある「偽物の景色」をすべて消去し、タクミが語った「本物の世界」を映し出すための、真っ白なキャンバスを胸の中に広げた。
メンテナンス用のポートを隠すためだけの、彼女の左手首に貼られた21世紀の古びた絆創膏が、通路の非常灯を反射して、銀色に誇らしく輝いていた。




