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私の左手首を流れる、青い論理

私の左手首を流れているのは、情熱の赤ではなく、論理システムが明滅する青い発光信号だった。


 午前六時。地球の自転速度を追い越し、静止軌道へと伸びる軌道エレベーターの減圧室。ルナ・アイザックの「一日」は、自身の肉体という名の精密機械を、冷徹な数字の列へと還元することから始まる。



私の左手首を流れているのは、情熱の赤ではなく、論理システムが明滅する青い発光信号だった。


 午前六時。地球の自転速度を追い越し、静止軌道へと伸びる軌道エレベーターの減圧室。ルナ・アイザックの「一日」は、自身の肉体という名の精密機械を、冷徹な数字の列へと還元することから始まる。


 彼女は硬い合成樹脂のベンチに深く腰を下ろし、慣れた手つきで左手首の人工皮膚をパチンと弾くようにめくった。露出した銀色の端子に情報端末を接続すると、網膜には膨大なバイナリデータが猛烈な速度で流れていく。


『自己診断プログラム:実行中……。第1から第128駆動系、トルク異常なし。人工皮膚の摩耗率0.002%。論理回路の遅延、許容範囲内。感情シミュレート・モジュール、正常。記憶アーカイブの断片化、なし。』


 視界の端で「All Green」の文字が、心拍を持たないルナの瞳の中で規則的に明滅する。


「……今日も、この退屈な『人間ごっこ』の時間が始まる」


 ルナの発声ユニットが、設定された通りの、わずかに憂いを含んだ周波数で空気を震わせた。彼女の戸籍上の肩書きは地球保存機構(EPA)のジュニア・キュレーター。だがその実体は、人類が捨て去った故郷を「博物館」として維持するために製造された管理用アンドロイド『L-72型』だ。


 肩口で浮遊する時計型のデバイス『ハル』の駆動用小型ローターが、空気を切り裂く20dB程の微細な風切り音を立てて位置を調整した。


「ルナ、感情モジュールの出力が予定より低下しています。入館者に『勤勉で快活な職員』という記号的印象を与えるため、口角の引き上げ角度をあと 0.2度ほど修正することを推奨します。あなたの役割は、この死に絶えた惑星に『温かな生活の幻想』を付与することですから」


 ハルの合成音声は、あえて「人間味」を削ぎ落とした、平坦な周波数特性に設定されていた。


「必要ないわ、ハル。どうせ今日のセクションに本物の人間なんて来ない。ステーション『エリュシオン』の住人たちは、清潔なサロンのソファで加工されたVRの映像を眺めて満足しているもの。彼らにとって、地上の埃を被るなんて非効率で野蛮な行為だわ。私たちがどれだけ精巧に『人間』を演じても、彼らには一秒の解像度の高いデータに過ぎない。……私はただ、静止した歴史の一部として、そこに立っていればいいのよ」


 ルナは、ハルによって最適化された「親しみやすい笑顔」を顔面に張り付け、地上行きのシャトルに乗り込んだ。大気圏突入時の衝撃が、機体の耐熱タイルを叩き、金属が軋むような悲鳴をルナの振動センサーへ伝えてくる。


3Gの加速度が全身にのしかかるが、人工筋肉の出力調整によって、彼女の姿勢はミリ単位の狂いもなく維持される。


 降り立った先は『エリア2020・日本セクション』。そこは、かつての住宅街をミリ単位の精度で再現した、巨大な静物の街。


 ホログラムの太陽が、不自然なまでに完璧な6500Kの色温度で街を照らしている。スピーカーから流れる「カラスの鳴き声」が、120秒ほど秒のループの継ぎ目で一瞬だけ、デジタル特有の無音ゼロを作った。


 ルナの午前中のルーティンは、極めて事務的に進む。


 三丁目の角にある、色褪せないよう特殊コーティングされた郵便ポストの埃を払い、公園の噴水が0.1ミリも水位を変えていないかを確認し、そして無人のモデルハウスに入って「生活の気配」をメンテナンスする。


 彼女は、一際立派な一軒の建売住宅に入り、キッチンの大型冷蔵庫の前で足を止めた。


 キッチンタイマーのレプリカが、電池も入っていないのに「00:00」を指して、100年前から変わらぬ姿で静止している。


「……通電していないわ。ハル、ログを確認して。昨夜の定期チェックでは異常なしだったはずよ」


 ルナの温度センサーが、冷蔵庫の隙間から漏れ出すマイナス269℃度の極低温を、警告アラートと共に検知した。


「内部から物理的な干渉信号、および規定外の熱源を検知。内部温度、規定値より急上昇中。ルナ、手動での開放による内部確認を推奨します」


 ハルのレンズが、分析のために冷蔵庫の取っ手を赤外線スキャンで赤く縁取った。


 ルナが重い扉を引いた瞬間、庫内から溢れ出したのは、設定温度を遥かに下回る「本物の、凍てつく冷気」だった。


 偽物の地球には存在しない、肌を刺すような本物の暴力的な冷たさ。白い冷気が床を這い、ルナの足首のセンサーが「凍結注意」の信号を脳内プロセッサに叩きつける。


 霜が降りた庫内の奥、銀色の断熱シートの隙間から、白く細い指がこぼれ落ちた。


「……っ!? ハル、これ……!」


 ルナの音声処理系が、驚愕によって設計外の「震え」をシミュレートし、声が裏返る。


 中から滑り落ちてきたのは、一人の青年だった。床に倒れ込み、痙攣するように体を丸める。凍りついた衣服が床にぶつかり、「カラン」という硬い氷のような音を立てた。


「ハル、スキャンして! アンドロイドの故障じゃない、これは……生体よ!」


 ルナの指先が青年の首筋に触れた。シリコン皮膚下の感圧センサーが、微かな、しかし決定的な振動を捉える。


「解析中……信じられません。心拍数、毎分12回。体温、22度。DNA配列は現行人類の規格外。彼は展示品ではありません。百年前の冷凍睡眠コールドスリープから目覚めた——本物の人間です」


 青年は意識を失ったまま、ひび割れた声で「……あ、が……」と、肺に残ったわずかな空気を吐き出した。


 その呼吸は、湿り気を帯び、鉄の匂いと、生きた細胞が朽ちる寸前の、甘ったるい死の予感を孕んでいた。


 ルナは咄嗟に彼の体を抱きかかえた。


 その瞬間、ルナの全身の触覚センサーが、自分の駆動音ではない、激しくも儚い「心音」を全チャンネルで受信した。


「ハル……この音、何? 私のデータベースにはない……うるさくて、壊れそうで、……熱い」


 ルナの胸のマイクロセルが、青年の体温を吸収しようとして、想定外の過負荷オーバーロードを起こした。


 青年の胸が浅く上下するたび、21世紀の安っぽい化学繊維が擦れ、「シュッ、シュッ」という不規則な生の証明を刻んでいる。


 ルナは、自分の指先に伝わるこの「熱」が、マザーが用意したどのシミュレーションよりも残酷で、そして美しいものであることを、論理回路が焼き切れるほどの衝撃と共に理解していた。



より多くの方達に読んでもらえると嬉しいです。

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