6.写し絵
急いで風呂敷に着ていたもの全部と靴を包み、治兵衛さんに渡された草履を履いた。
履き慣れない草履は少し大きくて、鼻緒が足の指に食い込んで痛い。
とはいえ、贅沢が言える状況でもない。
玄関の引き戸が開き、明るい陽射しが射し込む。
一歩外へ出ると、そこは時代劇のセットのような光景だったけど、吹く風も漂う空気も行き交う人々も何もかもがお芝居ではなく、現実なのだと肌で感じた。
「ほな、急ぐで」
治兵衛さんの言葉で我に返る。
「あ、あのっ」
「なんや?」
「鍵、掛けないんですか? 今、誰もいないですよね?」
「せやから鍵は掛けられへんやろ。今日はちっと早いが、だいたいこの時間は往診で誰もおらへんって皆知っとるさかい、心配いらんで」
ん? 誰もいないから鍵が掛けられないってどゆこと?
留守だって知れ渡ってるなら、泥棒も入りたい放題じゃない。
小首を傾げる私に、苛立った様子で「急ぐ言うてるやろ」と腕を掴まれ、無理矢理走らされた。
医者の家なら尚更、鍵って必要じゃない?
そう思ったけど、治兵衛さんに腕を掴まれたまま、小走りにどこかへと向かう。
今、何時だろう?
多分、まだ朝早い時間だと思うのに、通りには人が行き交っていて、活気があった。
そして、気付く。
行き交う人の誰もが関西弁だということに。
もしかして、ここって大阪?
治兵衛さんが言ってた瓦町って大阪の地名だったの?
そう思った瞬間。
「泥棒っ。誰かそん人捕まえてっ」
大きな声がして、通りは騒然となる。
「痛っ」
後方からの肩への衝撃に振り返ろうとした瞬間、その人物と目が合った。
鋭い眼光と息使い、乱れた髪、そして私と同じくらいの身長。
一瞬だったけれど、特徴を目に焼き付けた。
前方へ走り去るその背を、通りすがりの男が勢いよく追いかけた。
「大丈夫かっ」
ぶつかった拍子に落とした風呂敷包みを拾いながら、治兵衛さんが私に声を掛ける。
「大丈夫です」と答えながら包みを受け取り、ひったくりに遭ったと思しき人を振り返る。
その場に両手で頭を抱えて「どないしょ」としゃがみ込んでいる。
「おい、誰かと思えば春蝶はんやないか」
治兵衛さんがしゃがみ込む男性に駆け寄る。
知り合い?
「何を盗られたんや?」
「あ、春好はん。筆と下絵が入ったもんで、金目の物やないんやけど……筆は師匠に貰うたもんで、下絵は……今日が締め切りのやつやったんや」
春蝶と呼ばれた男性は一瞬顔を上げて治兵衛さんを見上げたが、すぐに溜息と同時に項垂れた。
「よりによって……そないなもん盗むやなんて……」
治兵衛さんも項垂れる。
事情はよく分からないけど、二人共困り果てているのは分かった。
治兵衛さんにはここに来てから助けられてばかりだ。
私が治兵衛さんの役に立てることって……
そうだ。私にも唯一自慢できることがあるじゃない。
私は地面にしゃがみ込み、風呂敷包みから2Bの鉛筆と治兵衛さんに貰った紙一枚をそっと取り出した。
勿論、周囲に風呂敷包みの中身を見られないよう注意しながら。
それから周囲を見回し、絵が描けそうな場所を探す。
が、見当たらないので、近くの家の板壁に紙を押し当て、そこで絵を描き始めた。
間近で見た。
ぶつかった一瞬だったけど、確かに目が合って、顔の細部まで見えた。
まだ、目に焼き付いてる。まだ、描ける。
「おお、おった、おった。急におらんようなるけぇ、焦ったやないか。そないなところで何して……」
言いかけて治兵衛さんは息を飲んだ。
「それ……なんや……?」
振り返ると治兵衛さんは真剣な表情で絵を見つめていた。
「犯人の顔です。絵があれば口で説明するより、警察……じゃない、お役人に見せたらすぐ分かるかなって……」
まだ速写程度のものだけど、顔の特徴はこれでも充分伝わるはずだ。
治兵衛さんはじっと私の描いた絵を見つめ、それから私の顔に視線を移し、
「一緒に絵、描かへんか?」
そう真剣な表情で言った。




