5.藍の衣
「臭っ」
思わず声が漏れる。
こんなところで用を足せって?
個室なのは有難いし、木箱に入った紙も有難い。
でも、その紙の上に小さな虫がいた。
隅にある小さな壺は多分、治兵衛さんが言ってた灰が入っていると思うけど。
その効果はあまり高くないようだ。
それなりに掃除もされてるっぽいけど、床に開いた長方形の穴から見える光景に思わず鼻を摘む。
とはいえ、トイレをしない訳にはいかない。
ここは覚悟を決めて。
心の中で「ぎゃあああ」と叫びながら用を足し、壺の側に置かれた柄杓で灰を撒いておいた。
トイレを出た時には全速力で走ったかの如く疲れていた。
力なく井戸水で手と顔を洗って、家の中に戻ると、炊き立てのご飯の良い香りがした。
左手に台所。右手には草がたくさん干してある部屋。
医者の家だから多分、薬草だと思う。
目が覚めた時にした変な臭いの正体はこれだったのかも。
この家は奥に長い作りになっているようで、一番奥が玄関。
途中に畳の部屋がいくつかあって、そこだけ一段高くなっている。
基本は土足で、畳の部屋だけ靴を脱ぐようだ。
「やっとかいな。よう気張ったみたいやなぁ」
治兵衛さんが呆れたような笑みを浮かべて私がいた部屋から顔を出した。
「早う飯食ってや」
急かされて小走りに部屋に戻る。
畳の上に直にお盆が置かれていて、そこにご飯と味噌汁と漬物が並んでいる。
それを見た瞬間、小さくお腹が鳴って反射的にお腹を押さえた。
そんな私に治兵衛さんは笑いかけ、箸を手渡してくれた。
おずおずと箸を受け取って座り、「いただきます」と小さく手を合わせてご飯を口に運ぶ。
「おいしい」
思わず声が漏れる。
そういえば、まともなご飯を食べるのは久し振りだ。
忙しくて自炊する気力がなくて、栄養食とかパンを齧って済ませていた。
だから余計に温かいご飯が心に沁みた。
「大袈裟やなぁ」
治兵衛さんが呆れたように笑う。
そこに玄斎さんが風呂敷包みを手に入って来た。
「これ、使い。俺のお古やけど、そないな格好で外出たら目立つさかい。ほな、俺はこれで」
そう言って立ち去ろうとする玄斎さんに「あのっ」と呼び止める
包みの中に何が入っているのか分からなかったけれど「いろいろとありがとうございます」と礼を述べた。
冷たく見えたけど、この人なりに私を気遣ってくれてるのが伝わったからだ。
「礼を言われる程のことやない。自分可愛さにあんたを放り出すんやから薄情やろ。仮にも人を助ける医者のすることやあらへん思うけどな、こっちも命は惜しいねん。せやから礼は不要や。これで勘弁してな」
そう言って包みをぽんぽん、と叩いて「ほな」と玄斎さんは木箱を手に家を出て行った。
包みを開けると、藍色の男性用の衣と焦げ茶の帯が入っていた。
こういうのを人情というのだろうか。
「さすが玄兄やなぁ」
包みを覗き込んで治兵衛さんが感嘆の声を漏らした。
見ると手には既に食べ終えた茶碗に重ねられた椀があった。
口がもごもごと動いている。
「俺はもう出なあかんさかい……」
本当に急いでいる様子の治兵衛さんは困った表情で私を見た。
「す、すぐに仕度しますっ」
と言ってご飯と味噌汁をかき込む。
毎日九時始業なのに八時には出社し、夕方五時半が終業なのに夜の九時が定時になっていた。
日付が変わるまで残業する日も多くて、通勤に片道一時間。
寝る時間を確保するために、朝の仕度時間は起きてから家を出るまでに十五分という、女性とは思えぬ速さを身に付けた。
メイク時間も必要ない今、着替えだけなら五分もあれば充分だ。
着物ならパパっと羽織って帯を巻くだけ。
スーツよりも簡単だ。
治兵衛さんが食器を片付けている間に着替えを済ませる。
服を脱ぐ時に気づいたのだけど、手首にヘアゴムがあったので髪を一つに束ねた。
そういえば、美容院にもしばらく行けてなくて、ショートだった髪も肩まで伸びていた。
食器を片付けて戻って来た治兵衛さんは私の姿に一瞬驚いた表情で固まり、「ちょい待ちぃ!」と慌てた声を出した。
「あかん、あかん! それ、死人の着方や!」
「え?」
「左前は死装束やねん。右が下や、右が!」
治兵衛さんが慌てて目を逸らす。
「すまん、すまん。俺、あっち向いとるさかい、直してくれるか? 右の衿を下にして、左を上に重ねるんや。それと、帯はもっと下や。腰のあたりや」
治兵衛さんは壁の方を向いて、背中越しに指示を出す。
言われた通りに直してみる。
「……これで、どうですか?」
「ちょ、ちょっと見てええか?」
恐る恐る振り返った治兵衛さんが、私の姿を見て首を傾げた。
「うーん……帯が緩いなぁ。それに、結び方が……」
治兵衛さんが困った顔をする。
「あのなぁ、悪いんやけど、ちょぉっとだけ帯触らせてもらってええか? 後ろ向いとってくれたら、帯だけ直すさかい」
「あ、はい……」
背中を向けると、治兵衛さんが帯に触れる気配。
「きつう締めるで。息、吸うて」
ぎゅっと締められて、思わず「うっ」と声が出た。
「ほな、こう結ぶんや。貝の口言うてな」
後ろで帯を結ぶ音がする。
「……よし。できた」
振り返ると、治兵衛さんが少し赤い顔で頭を掻いていた。
「衣でえらい別人みたいになりよったなぁ。ほな、行くで。少し遅れとるさかい、走るで」
とうとう追い出されるのか。
ん? でも走るって言った?




