4.紙一枚
布団を被って目を閉じてみた。
眠って朝が来たら、家のベッドで目を覚まして、変な夢だったと笑うかもしれない。
デスクで目を覚まして、残業中だった、と慌てるかもしれない。
だけど、布団の感触が夢じゃないって思えた。
タイムスリップなんて絶対夢だ。
こんなの現実じゃない。
ずっと夜だったらいい。
朝が来なければいい。
思い切り現実逃避に走ってみたけど、気付けば無情にも朝になっていた。
紙の擦れる音、何かを砕く音、そして強烈な臭い。
四つん這いになって襖の前まで行き、そっと襖を細く開ける。
隙間から様子を伺うも、よく見えない。
廊下というより土間になっているように見える。
「お。起きたんか?」
声がすると同時に襖を開けられ、襖に片手を掛けていた私はバランスを崩して畳に倒れた。
治兵衛さんが笑いながら「すまん、すまん」と謝る。
朝の光の中で見ると、割と爽やかな陽気なお兄さんといった感じだった。
単純に関西弁のせいかもしれないけれど。
「顔洗うんやったら裏の井戸使うて。厠も裏にあるさかい」
言われて私は重大な問題にぶち当たる。
厠。
つまりトイレ。
和式でぽっとんでトイレットペーパー以外の『何か』を使うことになる。
そこまでは歴史の授業で習ってない。
タイムスリップものの漫画やドラマでもそこまで詳しくは描かれていなかった、気がする。
浮世絵とか瓦版があったんだから、紙はあるはずだ。
トイレットペーパーなんて贅沢は言わないから紙を使いたい。
「あのう……」
「なんや? ああ、手ぬぐいやったらこれ使うて」
首に掛けていた手ぬぐいを渡され、ありがとうございます、と反射的に受け取ってしまったが、明らかに使用済みだった。
新しいのは? とは流石に訊けなかった。
「まだなんかあるんかいな?」
「……紙はありますか?」
「紙? 何に使うんや?」
トイレットペーパー代わりとは言えない。
口籠っていると、怪訝な顔をしながらも「ちょぉ、待ち」と言ってどこからかB5くらいの紙を取って来て渡された。
一枚だけ。
あと数枚ください、と言いたかったが言えなかった。
襖の向こうは一畳程の板間を隔てて土間になっており、正面に玄関らしき引き戸が見える。
左端に簡素な長椅子が置かれているだけで下駄箱らしきものはない。
私の靴が端の方に揃えて置いてあるのを見つけ、それを履いていると、右側の部屋から玄斎さんが出て来た。
既にきちんと身なりを整えていて、清潔感がある。
「お、おはようございます」
とりあえず挨拶してみると、「おはようさん」と返してくれた。
「俺は往診の準備せなあかんさかい。飯は治兵衛と食うて。挨拶も礼もいらんけぇ、食うたら勝手に出てってな」
そう言って家の奥へ行ってしまった。
「悪いな。俺もここに居候しとる身やから……せやけど、その恰好で追い出すんはなぁ」
治兵衛さんはそう言って頭を掻いた。
「ま、とりあえず、顔洗って飯にしよか。こっちついて来ぃ」
治兵衛さんに案内されて細長い家の奥の裏口から外に出た。
「こっちが井戸であっちが厠や」
そう言って「あ」と短く治兵衛さんが何かに気づいたように私を見た。
「紙って尻紙のことやったんかいな。それやったら中に置いてあるさかい。あと用が済んだら壺ん中の灰を撒いといてな。一応医者の家やけぇて、玄兄がうるさいんや」
良かった、紙あるんだ。
小さい紙一枚でどうしようかと思った。
「ほな、俺も今日は急がなあかんけぇ、悪いけど早う戻って来てな」
そう言って小走りに戻って行った。
とりあえず、貰った紙は折り畳んでポケットにしまい、小さな掘っ立て小屋に入る。
が、戸を開けて固まった。




