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36.女将

 江戸時代に来て初めてお風呂に入って学んだことがある。


 湯が熱い。

 (ぬか)の入った袋で体を洗う。

 体を拭くのは脱衣所ではなく、お風呂場。

 しかも、タオルが存在しないので手拭いだと何回も絞って拭かないといけない。

 それから。

 脱衣所で着るのは肌着まで。

 着物は自分の部屋で着る。


 でも、まだ分からないこともある。


 手の届かない背中の洗い方。

 髪はどうやって洗うのか。

 そして、私のお風呂の入り方は正しかったのか。


 ただ、現代のお風呂よりも体の芯まで温まった気はする。

 薪で沸かすからだろうか。

 あと、久し振りに入ったからか、とても気持ち良かった。

 シャワーがないのも、ボディーソープやシャンプーなどがないのも、ドライヤーがないのも、あれこれなさすぎて不便だけれど。

 これからは毎日でなくとも、こうしてお風呂に入れると実感したらなんだかとても安心できた。


 家ができた。

 ご飯が食べれた。

 私を知ってる人ができた。

 お風呂に入れた。

 そんな当たり前のこと、一つ一つが私を安心させてくれる。

 そして、とても大事なことだったのだと気づかせてくれる。

 当たり前は当たり前じゃない。

 幸せなことなんだと改めて感じた。


 そしてそれは同時に江戸時代で生きて行くんだという現実を突きつけられては受け入れて、覚悟を決めるということの繰り返しでもあった。


 女性に先導されて辿り着いたのは、先程の奥の間ではなくて風呂場に近い小さな部屋だった。

 そこにお綾さんの姿はなく、肌着に薄紅色の羽織姿でこの部屋で涼むようにと言われた。

 涼めと言われても窓もないし、団扇や扇子もない。

 ただ着て来た着物が綺麗に畳んで部屋の隅に置いてあった。

 突っ立っているのもなんなので、とりあえず座る。

 見回してみるも調度品もほとんどなく、客間というには狭く、何の部屋なのか。

 手持無沙汰で落ち着かない。

 そうこうしていると、先程の女性が戻って来た。

 手には櫛があった。

「その御髪(おぐし)……整えさせて(もろ)てもよろし?」

「あ、はい。お願いします」

 そう言いながら、そういえばあまりこの短い髪を人に見せてはいけなかったかも、と思い至る。

 お松さんが三角巾で髪を隠してくれたのに、お風呂で髪を洗ったせいで見られてしまった。

 何か……弁解した方が良いのか。

 そう思ってたけど、女性は何も言わず、櫛で梳かした後、三角巾で隠してくれた。


「お着物も手伝いましょか?」

 無表情に問われ、私は「はい」と小さく答える。

「ほな、お立ちになってくれはる?」

 言われて立ち上がると、女性はテキパキと着物を着付けてくれた。

 そして、着付け終わった女性の視線は私の髪に注がれた。

「……出しゃばるようであれやけど、安芸の(かもじ)(あつこ)うてはる処を教えましょか?」

「かもじ……?」

 なんか最近聞いた単語。

 確か……ウィッグだっけ?

「お金の心配やったら、うちで立て替えても構いまへん」

 ん?

 この女性、お手伝いさん的な人だと思ってたけど、普通お手伝いさんがお金の話する?

「なんでそんな……」

「親切やあらへんよって、気遣いは不要です。うちは主人や()うてあたしが金庫番させて(もろ)うてますさかい」

 んん?

 もしかして……この女性って……

「ああ。あたしはこの藤織の女将、お綾の母でございます」

「えっ!」

「娘から大事なお客やと聞いてます。せやから女将のあたしがもてなすんが筋やと思いまして」

「し、失礼しました。女将さんとは露知らず……」

 私が慌てて頭を下げると、女将さんは楽しそうに笑った。

「江戸のお嬢さんやて聞いとりますが、大事にされてはったようやねぇ」

 女将さんの言葉に私は恥ずかしくなって俯いた。

 なんだか丁寧な言葉の裏に値踏みされているような毒を感じたからだ。


「して、ご尊父様は江戸でどのような商いをされてはりますのや? さぞかし御大層なお家柄やて聞いとりますけど?」

 父は銀行員でサラリーマンです、とは答えられない。

 しかも実家は東京じゃないし。

 私が答えに詰まっていると、そこに番頭さんの声がした。


「奥様、客人の迎えがお見えです」

 その言葉に女将さんは一瞬、眉間に皺を寄せたが、すぐに笑顔になって私の襟元を直し、「ほな、行きましょか」と部屋を出るよう促した。


 奥から店の方へ出て、玄斎さんの姿を見つけると、なんだかとてもホッとした。

「ほな、お気をつけて」

 女将さんに見送られ、「ありがとうございました」と頭を下げる。

 玄斎さんも「お世話になりました」と言って軽く会釈した。


 帰り道。

 辺りはすっかり日が落ちて真っ暗だった。

 街灯もなく、家から漏れる灯りも僅かで、夜道は本当に真っ暗だった。

 玄斎さんの手にある提灯の灯りだけが頼りで、だけどそれもほんの数メートル先しか照らさない。

 昼間、活気のあった通りも日が落ちた時間は人通りも少ない。

 多分、まだ夕方の六時くらいのはず。

 そう思っていると、鐘が鳴り始めた。


「六つ時か」玄斎さんがぽつり呟く。


 ゴーン、と響く音の中、前方からゆらゆらと揺れる提灯の灯りがこちらに向かって来る。

「こないな刻限からあないに酔っ(ぱろ)うて……」

 玄斎さんが私の肩に手をやり、道の端へと避けさせる。

 提灯の灯りは右に左に大きく蛇行しながら近づいて来て……

 でも、その姿は。

「……治兵衛? 治兵衛か?」

 玄斎さんの顔が険しくなる。

 こちらの提灯の灯りに入って来た治兵衛さんの顔は酷く具合が悪そうで、息も絶え絶えという感じで、私達に気づいて口を開きかける。

 が、何か言葉を発する前にその場に倒れかけるのを私が慌てて受け止めた。

 荒い息遣いと熱い体。

 少しよろけたけど、なんとか支える。

 治兵衛さんの手から落ちた提灯がその場で燃える。


「風邪や……」

 玄斎さんが低く呟いた。


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