35.お風呂 其之弐
「石鹸ってご存知ですか?」
私の問いにお綾さんは眉間に皺を寄せた。
「も、勿論や。ほら、アレやろ? 鋭くて……」
ん? 鋭いって……『せっけん』って剣と勘違いしてる?
石鹸じゃ通じないなら。
「ボディソープ? じゃなくて、えーと……シャボン?」
「さぼん? さぼんってまさか……」
何かに思い至ったお綾さんは目を見開き、息を飲んだ。
「あんたの家じゃ風呂で『さぼん』使うてたんか……?」
そう言って私をキッと睨みつけた。
「い、いえ。そういう訳では……お綾さんなら使ってるかと思って」
「……あんたも使うたことないん?」
「ええ、まあ」
私が頷くとお綾さんは安堵した様子で胸元に片手を当てた。
お風呂が沸くまでの間、私はお綾さんからこの時代の最先端を聞き出そうと、こんな感じでいろいろと質問しようと思ったのだけど。
「そんなことより、あんた。玄斎先生のとこにおる……梅吉様のこと、何か知っとる?」
突如、気の強いお綾さんが鋭い視線を私に向ける。
「えっ? いえ。あまり……」
目の前にいる私が梅吉だってバレた?
一瞬、ひやりとしたけれど。
「お風呂炊くのに時間かかるさかい、ただ呆けて待っとるんも阿呆らしいやろ? せやから、次からは梅吉様について、なんでもええから話してや」
お綾さんは頬を赤らめてそう上目遣いに私を見た。
バレていないようで良かった、と安心する私に。
「あっ! まさかあんた……」
急に立ち上がって目を見開き、私を指差すお綾さんに、再びドキリと心臓が跳ねる。
「梅吉様のこと……好いとるん……?」
「い、いえいえ。私は全然っ」
全力で両手を振って否定する。
梅吉は私だしっ。
そうこうしていると、障子の向こうから「お湯のご用意ができましてございます」と女性の声がした。
いよいよ、やっと、お風呂に入れるっ。
胸躍らせながら、使用人と思しき女性に案内された場所へ行くと。
湯気の中、檜の香りがした。
思ったより狭く、思ったより薄暗い。
五右衛門風呂だったらどうしよう、と思ってたので、普通に木のお風呂で助かった。
お風呂は離れにあり、短い渡り廊下を渡って行った。
「着替えはこちらでお願いします。あと、これ、使てください」
お風呂の手前に脱衣所と思しき小部屋があり、そこで手拭いと布袋を渡された。
「あの、布袋は?」
「糠袋です。使うたことあらしまへんか?」
女性はとても驚いた表情で私を見た。
ないです、と正直に答えると、袋をお湯に浸けて体を擦って使うのだと説明してくれた。
これで体を洗うのか。
「あの……お手伝い、要りはります?」
私の無知っ振りに女性が困った表情でそう訊いて来た。
「あ、いえ。大丈夫です」
お風呂で手伝うって背中流したり?
流石にそれは申し訳なさすぎるので、丁寧にお断りした。
女性が「それではごゆっくり」と会釈して出て行くのを見送って、私は早速着物を脱いでお風呂に入った。
久し振りのお風呂。
洗面器に代わる桶もなく、ただ体に湯を掛ける取っ手の付いた木桶だけがあった。
仕方ないので、それに湯を汲んで布袋を浸す。
「熱っ」
思わず声が出る。
お湯、熱い。
あ、追い炊きがないから?
熱めに沸かしてあるのかな?
いやいや、これって薪で沸かすんでしょ?
追い炊きできるよね?
あれ? 薪ってもしかして貴重?
いやいや、ただの木だし。
この熱さがデフォルトなのかな、この時代。
いろいろ考えながらも布袋を腕に滑らせる。
匂うとあまり良い匂いではなかったけれど、でも肌がすべすべになる感じがした。
背中は無理だったけど、届く範囲で体中に布袋を押し当て滑らせた。
顔も洗ったけど。
「髪、どうしたら……?」
シャンプーに代わる物も見当たらず、髪もまさかこの布袋で? とも思ったけど、流石に違う気がした。
仕方なく湯ですすぐだけにする。
ゴシゴシ指でマッサージしつつ、何度か湯ですすぐも洗った気は全くしなかった。
何日もお風呂に入れず、髪も洗ってなかったので、湯ですすいでも油っぽさは消えなかった。
トリートメントまでは言わないからシャンプーしたい。
そう思いながら湯船に浸かる。
思ったより深い。
熱いけど火傷するほどの熱さではなく、慣れれば芯まで温まるようで気持ちよかった。
だけど、長くは入っていられず、すぐに出た。
この時代、バスタオルという物は存在しない。
渡されたのは手拭い一枚。
脱衣所で少し考え込む。
大きめの手拭いだけど、少し拭いただけですぐにびちょびちょになって水を吸わなくなる。
もしかして、これは絞って拭くを繰り返すもの?
そう思って再びお風呂場に戻り、手拭いを絞って体を拭き、絞っては拭きを繰り返した。
髪を拭くのは半ば諦めかけた。
この時代の人達、どうやって髪洗ってたのよ?
どうやって体拭いてたのよ?
お風呂入るのがこんなに大変だとは思わなかった。
これじゃ毎日入らないわ。
妙に納得しながら、しっとりした体で着物を着る。
着ながらふとパンツを鴨居に干したままだったのを思い出す。
その前に脱ぐのは簡単だったけど、この着物、お松さんに着せて貰ったんだった……
悪戦苦闘していると、渡り廊下をこちらに向かって来る足音がし、戸の前で止まる。
「失礼します」と戸が開くと、先程の女性が手に何かを持って驚いた表情で私を見た。
「あれま……」
そう言って女性は私の格好を見、次いで床を見、肩越しに風呂場を見て、再度「あれま」と言った。
「……こちらでお体お拭きにならはったみたいやけど」
言われて私は床に視線を落とす。
薄暗くて気づかなかったけど、よく見たら風呂場と脱衣所の床板は材質が違っていた。
板張りだけど地続きではない。
きっと脱衣所の床は濡らしてはいけない場所だったようだ。
「すみません……」
私が謝ると、女性は首を横に振った。
「いえいえ、江戸とこっちじゃ文化が違いますやろ? ちゃんと説明せんかったこっちが悪いんで……それと、お着物やけど、それもここでは肌着まででよろしよ?」
「えっ、全部着ないんですか? それじゃ着物はどこで……?」
「汗が引いてからお部屋で着るんがこの辺の……風習やけど。お客はんには羽織をお貸ししております」
女性が手に持っていたのはその羽織だった。
文化の違いで納得して貰えて良かった。
けど。
「床は拭く物貸して頂ければ自分で拭きます」
そう言うと、女性は目を見開き「お客はんに滅相もない」と慌てた。
「でも粗相したのは私ですし」
「説明しとらんかったあたしのせいやから、お客はんは何も気にせんといてください」
「でも……」
「それより……肌着、ちょっと直させて貰てもよろし?」
お願いします、と私は俯いた。
直しながら女性は小声で「江戸のお嬢様は流石やわ」と心の声が漏れていた。




