33.時間
「ウメ、お綾んとこ行って来たで」
お昼過ぎ。
玄斎さんが疲れた様子で帰って来た。
作業机の上の紙包みを一瞥して、玄斎さんは神妙な面持ちで「ちょっと話がある」と居間へと促した。
向かい合って座すと、玄斎さんは静かに口を開いた。
「今日から風呂を貸して貰えることになったんやけどな。一つ条件を出されて……すまんが、断り切れへんかったんや」
深刻そうな玄斎さんの様子から、とんでもない条件を突き付けられたようだ。
やっぱり私がお風呂に入りたいなんて我儘で贅沢を言ったせいで、周りに迷惑をかけてる。
お風呂なんて生死よりも大事なことじゃない。
大した問題じゃないのに。
「条件って……?」
私は恐る恐る訊いてみた。
「……梅吉とじっくり話がしたいそうや。ま、あの様子やと話だけやなさそうやったけどな」
「は?」
思わず声が出てしまった。
玄斎さんとじゃなくて? 私と?
壁ドンと顎クイッの威力……凄いな。
「せやから、明日はここ手伝わんでええから、梅吉の格好でお綾んとこ行ってくれへんか?」
「それは構いませんが、薬の準備とか……」
「そんなん今まで俺一人でやっとったんや。心配いらへん。それよりお綾んとこ行く時はお松連れて行きや。一人で行ったらあかんで」
「なぜですか?」
「また押し倒されでもして、女やと知れたらあかんやろ。お松は機転が利くさかい」
確かに、と納得する。
玄斎さんは初めて会った時から細かいところまでちゃんと考えてくれてる。
当事者の私が考えなきゃならないことを。
「それから風呂行くんは悪いが一人で行ってな。帰りは迎えに行くさかい、藤織屋で待っといてや」
「藤織屋?」
「お綾の呉服屋の屋号や」
そんな名前だったのか。
そう言えば、藍色の暖簾に白い藤の絵があったような気も。
「近頃は日が落ちるんが早いさかい、早めに行きや。七つ時には入れるようにしとく言うてた」
七つ時……七時ってこと?
でも文脈考えると、もう少し早い時間のような気がする。
それが二十四時間に換算したら何時なのか訊いても玄斎さんに分かるはずはない。
時間も重さなんかの単位も現代とまるで違う。
時間は確か干支で表していた気がする。
丑三つ時って何時だっけ?
子の刻から始まって、十二支だから一つの干支が二時間ごとだとするなら……丑は二時頃?
ああっ、でも三つ時って?
「……未来じゃ七つ時みたいな言い方せぇへんのかいな?」
私の心の声が聞こえたのか、玄斎さんは腕を組んで溜息を吐いた。
「はい……未来では一日を二十四時間で表していて……この時代は確か干支を使って表現していましたよね?」
「季節によって昼夜の長さが変わるさかい、同じ刻でも夏と冬じゃえらい違いやしな」
「えっ。季節でも変わるんですかっ?」
「未来の時間は季節で変わらへんのかいな? 日の出とる時間が違うのに?」
「変わりません。なんなら世界でも時差はありますが、時間の表現は統一されています」
確かに現代でもサマータイムがあるけど、日本はないから説明を省いた。
「世界で?」
玄斎さんは驚いた表情で固まった。
「ところで時間ってどうやって知るんですか?」
「鐘を鳴らして知らせるんや。家ん中おっても聞こえるやろ?」
そういえば、ここに来て毎日定期的に鐘の音が聞こえるな、とは思っていた。
何のためなのか、いずれ訊こうと思っていたけど、あれは時間を告げる鐘だったのか。
だとしても、一つ疑問が残る。
「鐘を鳴らす人はどうやって時間を知るんですか?」
「線香や日時計やろか。俺も詳しゅうは知らんのやけど、時計っちゅう時間を測る絡繰りもあるらしい」
あるんだ、時計。
ちょっと見てみたい。
時計がないのは不便だ。
「それより飯にしよか。食える時に食っとかんとな」
玄斎さんに促され、既にお昼を過ぎているのを思い出した。
朝にお菊さんが差し入れてくれた豆腐は食べてしまったので、お松さんがくれた里芋の煮物と……
ん? ご飯がない。
いつもは近所の人が炊き立てのご飯をくれるのに。
昼だけは温かいご飯が食べれたのに。
「今日は悪いが飯はないで」
思ってることが顔に出てたようで、玄斎さんが膳の用意をしながらそう言った。
「お綾のとこ行く前に家に戻ったやろ? あれ、往診先で米を預けとるお瀧さんが寝込んでしもうたって聞いてな。それでいつも食事の世話してもろとるさかい、薬を持って往診に行ったんや。寒い時期は風邪が流行るもんやが、今年は少し早う流行り始めたみたいやな。通りでも咳しとる者がちらほらおったわ。ウメも気ぃつけや」
玄斎さんの言葉に「はい」と頷きながら、ふと気づいてしまった。
今、ウメって呼ばれた。
いつも『あんた』って呼ばれて名前を呼んでくれなかった気がする。
あ。そういえば、お綾さんのところから戻って来た時もウメって呼ばれたような……?
そこに気づいてしまったら、やっと受け入れて貰えたようで、なんだかくすぐったいような、何とも言えない温かい気持ちになった。




