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32.不安

 積極的すぎるお綾さんの顔がゆっくりと近づいて来る。

 相手が男なら蹴飛ばして逃げるけど、相手は女性で、お風呂を貸してくれる予定のお綾さんだ。

 そんなことはできない。

 江戸時代で百合になるなんて……!


 そこに玄関の戸が開く音がした。

 視線を動かして、誰が来たのか確かめる。

 男性と思しき足元。

 だが、それ以上動かない。

 顔を見たいけど、身動きが取れない。


「玄斎先生っ」

 お綾さんが驚いた声を上げて、私の上から飛び退く。

「朝っぱらから……何しとんねん?」

 玄斎さんの戸惑う声にお綾さんは「これは、そのっ」と動揺し、「ほなっ」と逃げるように出て行った。


 残された私は起き上がって着物に付いた土を(はた)いた。

「で、何があったんや?」

「誤解しないでください。今のはちょっとした……事故です。お綾さんは玄斎さんが訪ねて来ないので来たと仰ってましたよ」

「来ないって、昨日の今日やろ? 往診が終わったら行くつもりやったって伝えてくれたか?」

「いえ、伝える間もなく、家の中を探し回り始めたので、それを阻止しようとして……それでその、転んで倒れたっていうか……」

「せやったんか。えらい目に()うたな。大丈夫か? 怪我ないか?」

 心配そうな台詞だったが、その表情はどこか楽しそうだった。

「はい。大丈夫です。もう往診は終わったんですか?」

「いや、さっき行ったところに薬が必要になってな。それで取りに戻ったんや。またすぐ出掛けるが、そこ終わったらお綾んとこ行ってみたるわ。お松にも今日はあんたを風呂に入らせぇ言われとるしな」

「すみません……お手数おかけします」

「謝ることやない。それより薬棚から甘草(かんぞう)を適当に少し持って来てくれんか? この間も(あつこ)うたさかい、分かるやろ?」

 甘草なら分かる。

 私は「はいっ」と自信満々に返事して、薬棚から一掴み分を取り出し、紙に包んで渡した。

 玄斎さんは中身を確認すると、「正解や」と笑顔で再び往診に出掛けて行った。


 再び一人きりになった私は玄斎さんの言いつけ通り、黙々と薬を量って紙で包むという作業を繰り返した。

 ちなみにパンツは玄斎さんの部屋の鴨居に干した。

 外に干すのは誰かに見られる可能性があるし、家の中で干せる場所はここしか思いつかなかった。

 日中は誰もいないし、パンツを知らない江戸時代の人にはちょっと変わった布としか認識されないはずだ。

 寒い時期でもパンツ程度なら半日で乾くはず。

 お昼に玄斎さんが帰って来るけど、寝る時以外は自分の部屋にほとんど入らない。

 日中は治兵衛さんは仕事に出掛けてるし、玄斎さんは午後からは主に診察室にいて、家の中を動き回っても自分の部屋に入る姿は見ていない。

 トイレに行ってる時や診察中に回収すれば問題ないはずだ。


 それにしても、ここに来て久し振りに絵を描いた。

 高校までは美術部だったのもあって、毎日絵を描くのが当たり前だった。

 けれど、大学は経済学部だったし、時間があれば友達と遊びに行くかアルバイトをして、絵を描く時間はなかった。

 大学でできた友達は漫画が好きな子はいても、絵を描くのが好きな子はいなかった。

 社会人になってからはもっと絵を描く時間も心の余裕もなくて、数えてみれば七年近く絵を描いていなかった。

 だからか、久し振りに絵を描いて楽しかった。

 ブランクはあったけれど、手はちゃんと覚えていた。

 絵師の人達にも私の絵は凄いと褒めて貰えた。

 私が描いた絵をお松さんは本当に喜んでくれた。


 ああ、私、やっぱり絵を描くのが好きなんだ。


 だから、治兵衛さんに一緒に絵を描かないかと誘われて嬉しかった。

 また絵を描ける。

 そう思ったのに。


 保留って何よ。

 それに裸を見られて気まずいのは私の方なのに、なんで治兵衛さんが避けるの?

 思い出したら再び腹が立って来た。

 

 それに気まずいままなのは一緒に生活するのに困る。

 いつまで江戸時代にいるのか、いつか帰れる日が来るのか分からないけれど。


 そうだ。

 もし、このまま帰れなかったら。

 いつか帰れると漠然と思ってたけど、帰れなかったら?

 このままここであの二人と暮らして行くの?

 男装した梅吉として、お風呂に入る時だけ女に戻ってお梅として?

 一生偽りの自分を演じて生きて行くの?


 もし、バレたら?

 きっとこの時代、ちゃんとした捜査も裁判もない。

 現代なら女が男として生きてたってだけでは罪にはならない。

 詐欺罪で捕まったとしても重い刑罰にはならない。

 でも、この時代は?


 薬を包む紙が作業机の上に散らばる。

 気づくと手が僅かに震えていた。


 死罪も有り得るんじゃない?

 それに気づいたからだ。


 玄斎さんが私を居候させることにあんなに反対してたのも、そういうことがあるからだったじゃない。

 私だけが死罪になるんじゃなくて、玄斎さんと治兵衛さんも殺されちゃう可能性も……


 私は漸く冷静になった。

 今は私が女だと知ってても黙ってくれている人達がいる。

 彼らの好意と勇気で私は生きていられるんじゃない?


 絵を描いて喜んで浮かれてる場合じゃない。

 裸を見られたのも相手が治兵衛さんだったから良かったものの、入って来たのが近所の人だったら?

 もっと気をつけないと。

 もっと……ちゃんと男らしくしないと駄目だ。

 今は江戸時代にいる。

 その自覚が足りなかった。

 これは漫画やドラマじゃない。

 現実なんだ。


 私はちゃんと考えないと駄目だ。

 ここで、江戸時代を生きるってことを。


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