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31.壁ドン

 見上げると雲一つなく、抜けるような青空が広がっていた。

 時代が変わっても、見上げる空だけは変わらない。

 空だけ見ていたら、江戸時代にいるというのが夢のような気がした。

 今立っているのは、通勤途中の道路の上。

 そんな気がした。


「誰かおらんのっ?」

 耳を刺すような声に夢じゃないと、現実に引き摺り戻される。


 お松さんが帰った後、玄斎さんは往診へ、治兵衛さんは作業場へ出掛けて行き、一人残された私は薬の調合を言いつけられていた。

 二人がいない間にパンツを洗おうと思い立ち、ノーパンで裏庭で水洗いした。

 さて、どこへ干すか、と空を見上げていたところだった。

 とりあえず、誰か来たようなので、パンツは作業台に置いて玄関へと急ぐ。


 そこにいたのはお綾さんだった。


 こちらが声を掛ける前に苛立った様子で「玄斎先生は?」と問う。

「往診中ですけど……」

 声をできるだけ低くして答える。

「私を訪ねるようお梅って子に頼んだのに、全然訪ねて来られへんよって、うちが自ら足を運んであげたんや。医者が忙しいのは分かってるけど、他でもないうちの頼みやで? 普通はすっ飛んで来るもんやない?」

 捲くし立てるお綾さんだったが、昨日の今日だし、急ぐ話でもないので、痺れを切らして訪ねて来るほどのことではないのでは?

 それに、玄斎さんは今朝の往診の後に訪ねるつもりでいたし。

 そう思ったけど、口には出さなかった。

 お綾さんはまだ目の前の私が昨日会ったお梅だとは気づいていない様子だが、いつバレるか分かったもんじゃない。

 そっと自分の着物と頭を確認する。

 今日は男装している。

 今の私はお梅ではなく、梅吉だ。


「まさか奥に隠してたりしてへんよね?」

 お綾さんは鋭い眼つきで周囲を見回す。

「玄斎さんは本当に往診中でして……」

 私が慌ててそう言うと、「怪しい」と小さく呟いて、お綾さんは診察室を覗き、隣の玄斎さんの部屋の襖を開け、探し回り始めた。

 そのまま真っ直ぐ奥の作業場へ進もうとするので、私は急いでお綾さんの行く手に立ちはだかった。

「なんやの。そっちに先生がおるん?」


 違う、パンツがっ。

 私のパンツが作業台の上にあるだけっ。

 未来のパンツを見られる訳にはっ。


 焦る私にお綾さんは玄斎さんがいると確信してしまったようで、私を押し退けて進もうとした。

 なので、咄嗟にお綾さんの肩を掴んで、勢い余って壁に押し付けてしまった。

 この状態は……うっかり壁ドンしてしまった。


「な、なんやのっ。なにするんっ」

 私の突然の行動にお綾さんは怒り始めた。

 お綾さんの機嫌が悪くなったら、お風呂に入れなくなる。

 それだけは避けたい。

 でも、ここからどうしたらお綾さんの機嫌が直せるのか……

 少女漫画だと壁ドンの後は……アレだ。


 顎クイッ。


 よし。

 私は意を決して、お綾さんの顎をクイッと持ち上げ、視線を強制的に合わせる。

 昨日は座ってたから気づかなかったけど、お綾さんは背が低い。

 私は一五五センチで割と低い方だけど、お綾さんは多分一四五センチくらいだろうか。


「玄斎さんじゃなくて、私を……俺を見ろよ」


 自分で言ってぞわり、と鳥肌が浮く。

 こんな台詞を言われるのではなく、自分が吐くことになろうとは。


 お綾さんの目を真っ直ぐ見つめる。

 その表情は。

 目が点になっている。

 江戸時代の女性に少女漫画的胸キュンはまだ早かったか。

 通じてない……


 そう思ったのだけど。


「はい……」

 お綾さんから吐息のような返事が零れた。

 目が点になっていたのではなく、ハートになっていたのか。

 分かりにくい。


「あの……お名前は?」

「梅吉だけど、ウメって……呼んで」

 (とろ)けるお綾さんに格好つけて言ってみる。

「ウメ? 嫌よ」

「えっ?」

「ウメ様って呼ぶわ」

 そう言って恥ずかしそうにお綾さんは俯きがちに目を瞬いた。


 こ、この展開は……どうしよう?

 梅吉としてお綾さんに惚れられてしまった。

 えっと、壁ドンからの顎クイッの後は……どうしたら?


「ウメ様は……ここに住んではるん?」

 困っていると、お綾さんから質問された。

「あ、はい。治兵衛さんの絵の弟子にして貰ったんですが、今は玄斎さんを手伝ったりもしてます」

「そうなん? 絵師なんやったら……うちの絵、描いてくれはる?」

 新品だった鉛筆が既に半分近く短くなっている。

 ここに来てひったくり犯、治兵衛さん、玄斎さんと立て続けに描いた。

 どれも小さい紙だったとはいえ、写真のような絵は陰影を描くのに鉛筆の消耗が激しい。

 これ以上、鉛筆を無駄にはできない。

 それに、あまり未来の物を知られる訳にはいかないし、第一、写真のように正確にお綾さんの顔を描いたら、お綾さんの性格上、機嫌を損ねる気がする。

 彼女は可愛いとか綺麗と褒められたいタイプだ。

 とはいえ、私は見たまま以外に描けない。

 美化しようとすれば、逆に変な顔になってしまう。

「まだ見習いなんで、勝手に絵を描いたりは……」

 そう言って断る方向へ持って行こうとしたけど。

「そんなん関係あらへんよ。うちが一言、治兵衛さんに()うたってもええよ。うち、呉服屋の娘やねん。せやから……」

「ありがとうございます。でも、まだ下手だから上手くなって治兵衛さんのお許しが出てから……」

「下手でもええねん。ウメ様が描いてくださるんやったら、うちはなんでも……」

 そこでお綾さんは顔を上げ、真っ直ぐに見つめて来た。

 キスが出来そうな程、顔が近い。

 ので、思わず視線を外してしまった。

「……美しいお綾さんを美しく描きたいんだ」

 咄嗟に歯が浮きまくる台詞を吐く。

「ウメ様っ」

 お綾さんが感極まって抱きついて来た。

 キュンキュンしてるのが伝わって来る。

 なんだか物凄い罪悪感が湧き上がる。

 同時に私の胸の鼓動も速くなった。

 勿論、恋のドキドキではない。

 晒しを巻いているとはいえ、女だとバレやしないか、というドキドキだ。


「い、いけませんっ。お綾さんっ」

 引き離そうとするも、抱きつく腕に力が込もる。

 そして、私はその場に押し倒されてしまった。


挿絵(By みてみん)

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