30.パンツ
そういえば。
江戸時代に来て、最初に目を覚ましたのが夜中だったので、その翌朝から数えて……今日で三日目。
さすがにそろそろ新しくしたいものがある。
パンツだ。
同じパンツを三日も連続して身に付けていたことはない。
風邪を引いてお風呂に入れなかった時も、二日は履いていたこともあったけど、さすがに三日目ともなればお風呂に入れなくても下着だけは替えていた。
でも、私が持っているパンツは今履いているこの一枚しかない。
洗濯してまた履けばいいだけの話だけど、乾くまではノーパンだ。
そもそもこの時代の女性はノーパンらしいので、脱いでしまえば済む話ではある。
既にブラはしていない。
でも、晒しを巻いている。
形を保つのではなく、男装するために潰してしまっているけど、ノーブラではない。
一応隠されてはいる。
しかし、パンツに代わる物は腰巻しかなく、ラップスカート的な物で、パンツではない。
男装を完璧にするために褌という手もある。
でも、それはトイレがかなり面倒なことになる。
生理になったら褌的な物をしなくてはいけなくなるので、今から慣れるために常に身に付けても良い気もするけど。
こうなったらお松さんに相談して、紐パン的な物を作ってもらおうか。
結局、今夜は体を拭けなかったせいか、布団に入った瞬間からパンツについて深く考えてしまい、眠れなくなってしまった。
早く現代に戻りたい。
トイレの戸を開けた瞬間もそう思ったけど、今はパンツのためにも強くそう思った。
衣食住で大事なのは『食』だと思っていた。
ご飯と漬け物だけの食事は我慢できる。
温かい食事が日に一度だけだというのも我慢できる。
現代的な食べ物はちょっと恋しいけど、それらが存在しなくたって生きていける。
家だってガスコンロも水道もなくて、竈に井戸、それにあのトイレでもまだ我慢できる。
屋根と壁があって、温かい布団で眠れるだけで有難い。
服だって着物は帯が少し苦しいし、着るのも面倒だし、トイレがちょっと難しいけど我慢できる。
でも、パンツだけは……どうしても我慢できそうにない。
私の、パンツッ!
切実に願っていたら、いつの間にか眠っていて、自然と目が覚めた。
襖を開けると、既に玄斎さんは診察室で往診の準備をしている気配がし、治兵衛さんは井戸で顔を洗って戻って来たところだった。
「お……おはようさん」
治兵衛さんは私に気づくと、小声でそう言って診察室へと入って行った。
「なんや、治兵衛? ん? 起きたぁ? なら、茶の沸かし方でも教えたって。一緒に暮らすんやったら、そろそろ覚えて貰わなあかんやろ」
治兵衛さんの声は聞こえず、玄斎さんの苛立った声だけが聞こえて来る。
思えば、裸を見られてから治兵衛さんの様子が明らかにおかしい気がする。
目も合わせてくれなくなったし、あまり話しかけてくれなくなったような……?
気まずいのはこっちなんだけど?
そこに勢いよく玄関の戸が開く。
「おはようさ……」
言いかけて止まる。
そこにいたのはお菊さんだった。
彼女の大きく見開かれた目が真っ直ぐに私を見据えている。
あっ!
今、私、女性の格好……だ。
頭に片手をやる。
髪も結んでないっ。
「ど、どちらさん……?」
その問いに診察室から玄斎さんと治兵衛さんが慌てて出て来ると、お菊さんの視線は治兵衛さんに移動する。
その目は明らかに説明を求めて動揺している。
そして、二人、あるいはどちらかと何かあったと決めつけている目だった。
「わ、私は……その……」
とりあえず、口を開いたものの、どう説明したらいいのか。
「こ、こいつはウメッ、ウメや」
治兵衛さんが昨夜話し合った私の呼び名を連呼した。
「お菊、誤解や。俺の手伝いで、さっきうちに来て、そこで着替えとっただけや」
動揺する私と治兵衛さんとは対照的に、玄斎さんが冷静に説明する。
「手伝いて……何の?」
お菊さんが困惑した表情で問う。
「俺は医者やで? ここ最近な、咳する者が増えてな。俺は一人やから薬作るんが間に合わんさかい、手伝うて貰てるんや。薬を扱うさかい、着替える必要があってな。せやから、お菊が思うとるんとはちゃうで」
「なんやぁ、朝から吃驚したわぁ。ほらぁ、陰間の噂とかあったやろ? せやから……なぁ?」
お菊さんは片手を胸に当て、ホッとした表情で笑った。
私もホッとする。
「これ、三人分やけど、お梅ちゃんも良かったら食べて。うちはお豆腐屋やから、お豆腐ばっかりで申し訳ないんやけど、今日も良いのが出来たさかい」
「あ、ありがとうございます。頂きます」
御礼を言うと、お菊さんは視線を素早く上下させて私を見、「ほな、私はこれで」と治兵衛さんに笑顔を向けて帰って行った。
そこに入れ替わりにやって来たのは。
「先生、おはようございますぅ。これ、いつものね。お昼にでもどうぞ」
お松さんはぞんざいに布巾の掛けられた皿を玄斎さんに渡す。
「お松、いつもおおきに」
礼を言う玄斎さんが目の前にいるのに、お松さんはすぐに私のところに近寄って来た。
「お梅ちゃん、昨日は夕方にお邪魔しよう思うとったんやけど、ちょっと家でバタバタしとって行けへんかったんよ。大丈夫やった?」
お松さんが心配そうな声を出す。
「あ、はい。特に何も……」
「お風呂はまだ行けてへんのやろ?」
「はい。お綾さんがまずは玄斎さんに会わせて欲しいということでしたので……」
「せやったな。先生、午前中にお綾のところに行ってくれへん? 女にとってお風呂って男が思うよりずっと大事なもんなんよ」
「ああ、分かっとる。今日はちょうど往診が少ないさかい、行って説得したるわ」
「よろしゅう頼みます。ところで、お梅ちゃん。女として一夜を過ごしたんやろ? 先生らに手ぇ出されへんかった?」
大真面目な顔でお松さんが問う。
「そんなことする訳ないやろ。お松、俺らをなんや思うとるんや?」
玄斎さんが呆れた声を出すと、お松さんは「ホンマにぃ?」と私に問うた。
その顔は真剣で、ちょっと怖い。
私は首を大きく縦に振って頷く。
もしかしてお松さん。
私を心配して言ってるのじゃなくて、私と玄斎さんの仲を心配してる?
「今日こそはお風呂入ろうな?」
お松さんが安堵したように、にっこり笑んだ。
ここまでが1章分になります。
さて、問題です。
実在した人物がここまでに2人登場しております。
滝沢馬琴は違いますよ?
名前が出ただけの人ではなく、登場人物として喋って動いてる人です。
璃花はまだまだ気づきませんが、分かった方はそっと見守っていてください。




