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28.交渉

「江戸の……お嬢様やて?」

 お綾さんの視線が私に鋭く突き刺さる。


「今はな、頭打ちはったみたいで、名前も家も思い出せんようなんやけど」

「名前も家も分からへんのに、なんで江戸のお嬢様なんや?」

「訛りのあらへん上品な言葉遣い、このすべっすべの肌、南蛮の高級品と思しき物まで持っててん。せやから普通のあたしらが利用する湯屋に入れるんは気が引けてな。お綾ちゃんとこのお風呂貸して貰えへんやろか?」

 お松さんの話にお綾さんは値踏みするように私をじっと見つめた。

「いろいろ思い出して、江戸のお屋敷から迎えが来はった暁には、お嬢様に良くしてくれはったってことで、なんや金銀財宝とまではいかんかもしれへんけど……礼の品が貰えるんちゃうやろか?」

 お松さんがチロリ、とお綾さんを見る。

 その目の奥にニヤリと不敵に笑うお松さんの顔が見えた気がした。


 その一言が効いたのか、お綾さんは「ふぅーん」と目を細めて煙管をふかし、ふぅーっとゆっくりと煙を吐いてから、私を見据えた。

「ええよ。お風呂貸してやっても」

 その言葉に私は思わずやった、と心の中で叫んで、お松さんと顔を見合わせる。

 お互い笑顔になったのも束の間。

「せやけど、条件がある」

『条件』という言葉にドキリとして思わずゴクリと唾を飲み込んだ。

「あんたが持っとる南蛮の品、うちにくれへん? それが風呂代や」

 その言葉にお松さんが口を押えて顔を歪め、申し訳なさそうに私を見た。


 南蛮の品。

 スマホは無理だ。渡せない。

 それに南蛮の品で通る物じゃない。

 ボールペンも同じ。

 渡せるとしたら……鉛筆?

 いや、でも渡したくない。

 私の唯一の特技、写真のような絵は鉛筆でしか描けない。

 筆じゃ無理だ。

 あと持ってるのはスーツとパンプス。

 呉服屋のお嬢様にスーツを見せて良いのか。

 南蛮の服だって言って通用する?


「……分かりました。今ここには持っておりませんので、また改めてお持ちします。それでもよろしいでしょうか」

 私がそう言うと、お綾さんは目を細めて「ま、それでもええよ」と私の方を見ずに答えた。

 お松さんはホッと胸を撫で下ろして、私を見、それからお綾さんの方に向き直る。

「ほな、今夜からお風呂借りに来てもええ?」

「ええけど。で、その子は家が分からんってことやけど、今は何処におんの?」

「玄斎先生が……」

 その名にお綾さんの視線がキロリと光る。

 と、お松さんはにこりと笑んだ。

「お梅ちゃんを拾って、あたしに預けたんよ。頭打った()うたやん? 玄斎先生が治療しはったんやけど、あそこは治兵衛さんと男二人やろ? せやから、あたしに面倒見たってってことで。一応この子は先生の患者になるから、お綾ちゃんも気をつけてあげてな?」

「なんで先生はあんたになんか頼んだんやろ? うちに頼んだらええのに」

「偶々や。あたしが診て貰うた時にこの子がおってん。ちょうどええわってことで」

「ほな、風呂だけやのうて、うちに住むか? 江戸のお嬢様なんやったら、八百屋なんかじゃ暮らせへんやろ」

 唐突な申し出に「えっ」と思わず声を上げる私とは反対に、お松さんは全く動じることなくにこにこと笑みを浮かべたまま「心配いらへんよ」と断った。

「先生が気にかけてくれてる()うたやろ。お綾ちゃんは風呂だけ貸してくれたらええから」

 お松さんはわざと含みを持たせた言い方をしたせいで、お綾さんの表情が険しくなる。

 機嫌を損ねるなって言ってたのは誰よ?

 言った本人が真正面から喧嘩売ってるじゃない。

 可愛いって一言も褒めてないし。

「ほな、忙しい時にすまんかったねぇ。用事は済んださかい、あたしらはお暇しよか」

 立ち上がるお松さんに私も小声で「でも……」と言いながらも慌てて立ち上がる。


「条件、変えるわ。玄斎先生を寄こしぃ。先生とその女について話させてんかっ」

 怒りに満ちた目でお綾も立ち上がる。

「伝えとくけど……その綺麗なお着物は少し直しといた方がええよ。先生はきちんとしてはるから」

 そう言ってお松さんは憤慨するお綾さんを残して、私の手を引いて部屋を出た。


 帰り道。

 お松さんはとても楽しそうに笑った。


「見たぁ? お綾ちゃんの顔。やっぱりお綾ちゃんの怒った顔はいつ見ても笑えるわぁ」

 お松さんは人を怒らせるのが好きなのか?

「大丈夫ですかね? めちゃくちゃ怒ってましたけど。あの状態で玄斎さんと会わせても……」

「せやから先生を会わせるんやろ。分かってへんねぇ」

 心配する私にお松さんはニヤリと笑む。

「お綾ちゃんは先生のことが好きなんよ。許婚がおるのに結婚したいって駄々捏ねてるらしいで」

 好きだから会わせて怒りを収めようってこと?

「ま、怒らせたんはな、あたしがうっかり南蛮の品やなんて()うてしもうたせいで、お梅ちゃんの大事な(もん)を渡さなあかんくなったやん? あの子はな、何でも欲しがる子なんよ。せやけど、何を置いても先生一筋やから、先生の話を出したら南蛮の品も諦めてくれるんちゃうかなーって思うて。案の定、上手くいって良かったわ」

 あ。

 そういうことだったんだ。

 私のためにわざと……

「不機嫌なお綾ちゃんも先生の前では借りて来た猫みたいに大人しゅうなるさかい。それに先生が一言、お梅を頼むって()うてくれはったら、お綾ちゃんもあんたを邪険にでけへんようになるやろ。でもって、こないに働いたあたしを先生は褒めてくれはるやろし、お梅ちゃんも先生の家でうっかり裸を見られるようなこともないやろし……」

 お松さんの最後の一言でつい思い出してしまった。

 治兵衛さんには既にうっかり見られてしまったこと。

 思い出したら急にまた恥ずかしくなって来た。


「って、なんやの? 顔赤いで?」

 熱でもあるんちゃう? と立ち止まってお松さんにおでこに手を当てられ、ちゃうね、とお松さんが再び私の隣に移動した瞬間。

「あ、治兵衛さんや」

 お松さんが気づいて手を振る。

 が、治兵衛さんは目が合った瞬間、その場に立ち止まったかと思うと、来た道を猛ダッシュで駆けて行った。


「なんやの、あれ?」

 お松さんが小首を傾げる。

 恥ずかしい場面を思い出した途端、本人が目の前に現れるって。

 気まずさがまたぶり返して来た。


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