20.風邪
「ところで治兵衛、作業場に戻らんでええんか?」
話が一旦落ち着いたところで、玄斎さんに問われた治兵衛さんは「戻らなあかんねんけど」と言いながら、ちらと私を見た。
「まだ何かあるんか?」
「いや、とりあえず噂について伝えとこ思うただけやねんけど……」
「なんや、歯切れが悪いな」
「ほな、もう戻るわ」
「おう。お菊には明日改めて話しとくわ」
そういう玄斎さんに少し逡巡する様子を見せながらも、治兵衛さんは仕事へと戻って行った。
ということで、再び二人きりになる。
気まずい。
なので、とりあえず昼食の片づけをする。
言われたことを言われた通りにする。
それを心がけよう。
ここは玄斎さんの家で、江戸時代の大阪で、私の知らないことばかりだし。
分からないことを分からないまま進めて、また失敗して迷惑をかけることだけは避けなきゃ。
そう心に誓って、裏庭で食器を洗っていると、玄斎さんが来た。
たすき掛けをして、手伝ってくれるのかと思いきや。
「午前中は往診で、午後はうちに来る者を診るさかい。これから家ん中が騒がしゅうなると思うんやが、あんたはこれに書いた通りに棚を戻しといてんか」
そう言って一枚の紙を差し出された。
が、私の手が濡れているのを見ると、玄斎さんは地面に小石で錘をして紙を置いた。
私がぐちゃぐちゃにしてしまった薬棚。
私が直すのは当然だ。
でも、それを私に任せてくれるってことは、少しは信頼して貰えてるってことかな?
「それが終わったら、草の名前を覚え。中身が合っとるか、分かっとかんと意味ないやろ? 後でどんだけ覚えたか見させてもらうさかい。ええな?」
それだけ言って玄斎さんは家の中へと戻って行った。
洗い物を済ませ、盥を片付けながら、ふとそういえば洗濯物はどうしてるんだろ? と疑問が浮かんだ。
そういえば、お風呂にも入ってないし、医者なのに清潔に保たなくていいのだろうか。
とりあえず、今日こそはお風呂に入りたいと思いながら、玄斎さんが書いてくれた紙を頼りに、薬棚を戻す作業に移る。
昔の人の文字って読みにくいってイメージがあったけど、玄斎さんの文字はあまり崩してなくて読みやすい。
引き出しを全部元に戻すのに、結構時間がかかった。
ちゃんと紙の通りに戻せたか、再度指差し確認する。
そういえば、薬を作るのも医者がするんだ。
現代のように薬局が別にある訳じゃないんだ。
ってことは、玄斎さんは内科のお医者さん?
往診もして家でも診療してって結構大変そう。
しかも助手というか看護師的な人もいないみたいだし。
一人で全部やってるって凄いなぁ。
って感心してる場合じゃない。
テストするって言われてるんだから、草の名前を覚えなきゃ。
よし、と気合を入れた時、診察室の方から咳き込む声が聞こえた。
寒くなって来たから風邪の患者さんだろうか。
しかも一人だけじゃない。
そっと玄関の方を覗くと、三人程が土間に立っていた。
私の位置からは待合用の長椅子は見えなかったから、全部で四、五人は待っていると思われる。
受付と会計くらいお手伝いできれば良いんだけど。
でも、言われてないことを勝手にやって、また失敗したくないし。
とはいえ、忙しそうなのに私はこのまま薬棚の前で呑気に名前を覚えているだけで良いのかな。
咳き込む声は一つではなくて、多分、待っている人の大半が咳をしている。
このままじゃ、締め切った室内で診察してる玄斎さんも飛沫感染しちゃうんじゃ……?
とりあえず換気はした方がいいよね?
あとこの時代って消毒って概念がないはずだから、患者さんが触ったりしたところとか拭いた方がいいかな?
玄斎さん達ってお酒飲むのかな?
焼酎があったらアルコール消毒もできそうだけど。
とりあえず、私はマスクをした方が良いよね?
マスクになりそうなものは……
そんなことを考えていると、玄斎さんが小走りにやって来て、薬棚から引き出しを引き抜き始めた。
作業台の上に引き出しが七つ程並んだ。
「葛根、麻黄、桂皮をそれぞれ二匁ずつ。芍薬、甘草、大棗は一匁五分。生姜は三片。これをそっちの天秤で量って、包み紙はここに入っとるの使うて。包んだらそこの箱に入っとる紐で縛る」
指示しながら玄斎さんは分かりやすく引き出しを並べ替えた。
二匁、一匁五分、三片と量で分類してそれぞれの間を空けた。
そして再び引き出しを引き抜き始める。
「柴胡を三匁。人参、黄芩、半夏を二匁ずつ……」
言いながら台の上に紙を置く。
「ここに書いてある通りに量って紙に包んでや。葛根が入る方はこっちへ、柴胡が入る方はこっちへ置き。間違わんようにな。これは薬やけど、量を間違うたら毒になる。慎重に量ってな。ええな?」
「あの……二もんめって……?」
この時代の単位は全然分からない。
「なんや、未来じゃこないな言い方せんのかいな?」
言いながら玄斎さんは錘を並べた。
「二匁はこれを二つ、分はこっちの錘を使うんや。生姜はこの欠片を三枚入れたらええ」
「あの……」
言い終えて戻ろうとする玄斎さんを呼び止める。
薬だけじゃ感染は止められない。
玄斎さんもマスクと手袋をした方が良いけど、この時代にそんなものはない。
でもせめて、鼻と口を布で覆うくらいはした方が良い気がする。
だけど、そんな提案を医者でもない私が言うのは少し憚られる。
「……なんや? 使い方が分からんか?」
逡巡する私に玄斎さんが急かすように問う。
「……いえ。なんでも……ないです」
やっぱり医者じゃない私が意見するなんて、きっと玄斎さんを嫌な気分にさせてしまうかも。
その前にそんなこと受け入れて貰えない気もする。
「なんや? 言いたいことがあるなら言ってみぃ」
「いえ、大したことじゃ……」
「……言ってみ。口に出さへんと分からんで? ちゃんと聞いたるさかい」
真っ直ぐに見つめられた私はその圧に負けて、口が勝手に開いた。
「換気と消毒をした方が良い……かも、です」
「なんでや?」
「咳をしてらっしゃるので、飛沫感染の恐れがあるからです」
「飛沫……? もしかして、風邪の原因を知っとるんか?」
「はい。風邪は体内に入ったウイルスが原因で、患者との接触で感染します」
「ういるす?」
「えっと……肉眼では見えない……虫、です」
虫……じゃなくて細菌だけど、菌自体知らない人には虫も似たようなもの、だよね?




