第9話 ノウザンクロスと美肌の湯
窓の外の嵐と、コーヒーの香り。
見慣れたはずの居間は、まるで生まれてはじめて見る景色のように映った。
「結衣!」
コーヒーを飲んでいたももちゃんが驚いたように立ち上がる。
「どうしたの?」
琥珀色の瞳に見つめられて、さっきまで泣いていたことを思い出した。
「大丈夫? もしかして、クソジジイに何か変なことされた?」
あたしはシャツの袖で涙を拭うと首を振った。
「誰がクソジジイだ」
すぐ横で聞こえた新井さんの声に全身がビクッと震える。
「おい、みゆき」
新井さんが声をかけると、台所にいたみゆきさんがひょいと居間をのぞく。
「どうしました?」
新井さんはあたしの肩にぽんと手を置いた。
それだけで、電流が走ったみたいに体が波打つ。
「こいつも北十字に入れるから、あとはいろいろ説明しておいてくれ」
「え、ええええ! ちょっと、何言って」
焦ったようにあたしを見るみゆきさんを残して、新井さんは部屋へ戻っていった。
ももちゃんはみゆきさんをしばらく無言で眺めていたけど、あたしの方に向きなおるとニッと笑った。
「一緒に頑張ろう、結衣」
◇
「結衣、本気なの? 本当にメンバーになるつもり?」
戸惑いながら言うみゆきさんに、あたしは正座して頭を下げた。
「はい、よろしくお願いします」
みゆきさんは困ったように視線を泳がせる。
「でも……結衣はほら、ちゃんとしたお家のお嬢さんだし」
「あたしがちゃんとしてないみたいに言うのやめてもらえます?」
ももちゃんが口を挟む。
「ももちゃん……その、そういうことじゃなくて」
「いいじゃん、結衣が仲間になってくれたら嬉しい」
ももちゃんは笑顔で言った。
この感じからして、おそらくももちゃんもメンバーなんだろう。
みゆきさんはいつになく真剣な表情であたしを見た。
「結衣、新井はあなたを誘ったかもしれないけど……私たち、北十字社のメンバーに加わることがどういうことかわかってる?」
あたしは頷く。
北十字って言うのか……銀河の出発点だ。
新井さんの話はなんかフワッとしてたけど、革命っていうくらいだから多分穏やかではないんだろう。
「私も、新井さんの目指す理想社会を見てみたいんです」
「家族にだって会えなくなるかもしれないのよ、それでもいいの?」
みゆきさんの言葉は重かった。
お母さん、お父さん…………お姉ちゃん。
家族だけじゃない、今までの世界と決別する覚悟がないと、きっと世の中を変えるなんてできない。
「私たちは社会の規範を破壊しようとしているの。きれいなことばっかりじゃない……本当にいいのね?」
あたしの決意は揺らがなかった。
「はい」
あたしはにらむくらい強い眼差しでみゆきさんをまっすぐに見た。
窓を叩く雨は激しさを増して、庭があるはずのガラスの向こうは白くけぶって何も見えない。
「私たち……北十字社は『家庭』こそが諸悪の根源だと考えているの」
みゆきさんはどこからか書類の束を持ってきて畳の上に置くと、落ち着いた声で話し始めた。
「結衣、しあわせって何だと思う?」
急に聞かれて言葉に詰まる。
もしかして、返答次第では仲間になれないとかそういうステルス試験的なやつ?
「そんなの、わからないよね」
みゆきさんはあたしの答えを待たずに言った。
「本来、『しあわせ』なんて曖昧でよくわからないもののはずなのに、この国では『結婚』すること、『家庭』を持って運営していくことが『しあわせ』とされてきた」
みゆきさんはふうと息をつく。
「なんでだかわかる?」
また質問だ。
確か、さっき新井さんが言ってたのは……
「支配者に、都合がいいからですか?」
あたしが答えると、みゆきさんは少し驚いたような顔をしたあと頷いた。
「そう、自分がしあわせなのかどうか、わからなくて不安な人のために、モデルルームみたいに支配層が『しあわせ』の形を用意したの。それでみんな自分はしあわせだって安心するために、必死になってそれを手に入れようとするのよ」
ふと、誠さんの横で甘えた声で話すお姉ちゃんの姿が頭に浮かんだ。
「だからみんな『結婚』をしたがるし、そのあとは『子ども』と『マイホーム』かしら……みんながみんな同じものを有り難がるのはぞっとしないけど、問題はそのあと」
みゆきさんは少しためてから、低い声で言った。
「『しあわせ』は、人を縛ってくるのよ」
窓の外、遠くでくぐもった雷の音がする。
「しあわせを手に入れた人はね、今度はそれをなくさないように、守ることに必死になるの。そうなると……たとえば自分の扱いに不満があったり、世の中が間違っていると思っていても、正面からぶつかってしあわせを失うくらいなら現状のままの方がいいやってなる」
みゆきさんは淡々とした調子で話す。
「そうやって、支配層に都合のいい人間が出来上がるのよ」
誰かが作ったのかもわからない『しあわせ』を求めて、安心という鎖で自分を繋いで、そして鎖を持たない者を馬鹿にして笑う。
自分たちが『奴隷』にされていることには気付かずに。
「そうやって人を家庭に押しこめて、小さくまとめてきた結果、人口は減って、国際的競争力も下がり続けている。窮屈なしあわせにがんじがらめになって、この国はゆっくりと沈んでいこうとしている」
あたしたちが『しあわせ』だと信じこまされていたもの……新井さんに言わせれば、その正体は奴隷の鎖だ。
『奴隷になるな、結衣』
新井さんの甘い声を思い出して体の芯がゾクッとする。
「私たちはその枠組みを破壊しようとしているの。家族よりも、もっと広いコミュニティを作ってその中で豊かに暮らそう、ひいては、世の中を変えようとしているのよ」
みゆきさんはあたしの反応を確かめるように、ひと言ずつゆっくりと話す。
「民主主義っていうのはつきつめると多数決だからね……この国においては人口は圧倒的な強さになる。今は私たちの方が異端だったとしても、人を増やして、この考えを広げていけば、いずれこっちが普通……つまり正統になる」
いったん言葉を切ると、みゆきさんは静かな目であたしを見た。
「それが、新井の目指す『理想社会』よ」
壮大な言葉に思わず背すじが伸びる。
「ここまではいい?」
「はい」
念を押すようなみゆきさんに、あたしは静かに答える。
「次に、いま現在の北十字社の活動内容なんだけど……」
みゆきさんはちゃぶ台の上にガサガサと書類を広げた。
ちゃぶ台を覆いつくすくらい大きな紙に描かれていたのは建物の設計図だった。
あたしは設計図をのぞき込む。
ロビーに、宴会場と……客室?
これはまるで……
「旅館ですか?」
あたしが顔をあげると、みゆきさんは頷いた。
「そう、飛騨の山の方にある温泉旅館。今は廃業してるけどね」
この温泉旅館が理想社会と、どう関係があるんだろう。
「ここを私たちの活動拠点にしようと考えているの」
あたしの心を読んだようにみゆきさんは言った。
「宿舎もあるし、広間も厨房もある。生活と、あと事業をするのに必要なものがひと通り揃ってるでしょう」
「露天風呂もあるよ」
ももちゃんが無邪気な笑顔で図面を指差した。
「使うかはわからないけどね」
そう言って苦笑すると、みゆきさんは再び真剣な目であたしに向き直った。
「この旅館の買取りと、だいぶ古くなってるから内装の改修、あと事業を始めるにあたっての初期費用の合計がこれ」
みゆきさんはファッション誌くらいの厚みの冊子を図面の上に置いた。
表紙の厚紙をめくると、見たことがない桁の数字が出てきた。
ぱっと見では頭が数を認識できない。
「ええっと、いち、じゅう、ひゃく……」
「しめて、1億9千7百万円」
指でゼロを追うあたしに、みゆきさんが言葉をかぶせる。
途方もない金額に、あたしは言葉が出てこなくて目をぱちぱちさせた。
金額が大きすぎて、それが高いのか安いのかもわからない。
「当面はこの資金を集めることが主な活動になるわ。メンバーになるなら、結衣にも収益活動に当たってもらうことになるけど……」
その、1億いくら貯めるのに、いったいどのくらいかかるんだろう……あたしはぼんやりと図面の中の露天風呂を眺める。
「結衣は18歳の女の子だから……初月は70万、そのあとは毎月50万円を収めてもらうことになるわね」
「な……ななじゅう?」
あたしは目を見開いた。
聞き間違いじゃないのか? あたしはその10分の1だって稼いだことなんてない。
「結衣」
ももちゃんが口を開いた。
「できるんだよ……女の子ならね」
さっきまでのはしゃいだ声じゃない、胸の底に積もるような静かな声だった。
開いた口から、すぐには声が出てこない。
ももちゃんの言ってる意味がわからないわけじゃない。
女の子がたくさんお金を稼ぐ方法は、あたしだって知っている。
ももちゃんはじっとあたしを見た。
あたしを試すような、それでいて誘うような目だった。
お前にできるのかと、こちら側に来れるのかと、岸の向こうから見られているみたいだ。
ざあざあと、雨の音が川の流れのように聞こえる。
ぎゅっと唇を結ぶ。
自分でも不思議なほど、心は澄みきっていた。
あたしは今までの世界と決別することを決めた。
こっちを『あたしの世界』にすると決めたんだ。
今までのあたしだったらありえないと思ってたことだって、なんでもやってみればいい。
知らない世界だって、ひと思いに飛び込めばいいんだ。
どうせ戻ったところで、あたしに残されている道は『奴隷』か『透明人間』だ。
あたしは小さく息を吸うと顔を上げた。
「やります。よろしくお願いします」
◇
嵐が通り過ぎたあとは、星空が残されていた。
「ごめんね、北十字のこと黙ってて」
空を見上げながらももちゃんが言った。
あたしは黙って首を振る。
家を出てからずっとつないでる手のひらからは柔らかい体温が伝わってくる。
「みゆきさんにはああ言ったけど、家族とかどうでもいいあたしと違ってさ、結衣は育ちがいいっていうのか、ちゃんとしてるから、こんな活動してること話したら引かれると思って」
「そんなことない」
あたしはぎゅっとつないだ手に力を入れる。
「そんなことないよ」
ごく普通の家庭に生まれて、偏差値の高い学校に通って……あの頃のあたしは、まわりから見れば確かに『ちゃんと』していたんだろう。
でも、あたしはいつも空っぽで、虚しくて仕方がなかった。
世界から弾きだされて、どこにも行くことができずにさまよっていたあたしを、新井さんは仲間だと迎え入れてくれた。
「あたし、ももちゃんと仲間になれてすごく嬉しい。これから大きな目的に向かって一緒に頑張るんだって思うと、すごくワクワクするんだ」
何も飾らない、あたしの正直な気持ちだった。
ももちゃんは何も言わなかったけど、ぎゅうっと強く手を握りかえしてきた。
涼しい風があたし達の間を吹き抜けていく。
バス停までの短い道を、このままずっと歩いていたい気分だった。
◇
玄関を入ると、ちょうど洗面所から出てきたお姉ちゃんと顔を合わせた。
「あ、おかえり……」
言いかけて、お姉ちゃんはぎょっとしたようにあたしを2度見する。
「あんた、どうしたの?」
何を言われてるのかわからなかった。
別に遅い時間じゃないし、そもそもごはんを食べてくることは連絡してある。
「どうって、別になにもないけど……」
靴を揃えるあたしをお姉ちゃんはなんとも苦い顔で眺めたあと、「そう」とだけ言って部屋へ戻っていった。
いったい何なんだろう…….言いたいことがあるならはっきり言えばいいのに。
靴箱の飾り棚を見ると、芍薬が場違いなほどに真っ白な花を咲かせていた。




