表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

8/22

第8話 青春18きっぷと奴隷の鎖

 青色の蝶をそっと髪に留める。

鮮やかな青色は、心なしか表情まで華やかにしてくれる気がする。


『虫ついてるよ』


 思い出したくないのに、お姉ちゃんのバカにしたような笑みが浮かぶ。

あたしは髪飾りを外して小箱に戻すと、机の引き出しにしまった。





 湿った空気を含む風が髪を舞いあげていく。

そういえば、台風が近づいてるって言ってたっけ。


 空を見上げると、妙に紫がかったような、不気味な色の雲がすごい速さで流れていくのが見える。


 雨が降り出す前に、急ごう。

あたしは早足で大通りの坂を登った。


 ごうごうと吹く風は、まるでうなり声を上げる獣みたいで、油断するとどこかに吹き飛ばされてしまいそうだった。


「すごい風……結衣、今日は終わったら早めに帰ったほうがよさそうね」


 家の中では、みゆきさんがガタガタ鳴る窓を手で押さえながら空を見ていた。


「嵐になりそう」





 荒れ狂う風の音も、降りはじめた雨の音も、まるで遠い世界のことのように、今日もこの部屋は静かだ。


 夜空の旅にも慣れてきたとき、車掌が切符をあらために来た。

ジョバンニは不安になる。

切符を買った覚えがないのだ。


 読みながらどきりとした。

ほかの乗客もカムパネルラもあたりまえのように切符を持っている。

どうやら自分はここにいてはいけないらしい……このいたたまれない気持ちには覚えがある。


 わけもわからず探ったポケットに、ジョバンニはある紙をみつける。

それを見た鳥捕りがあわてたように声を上げる。

ジョバンニが持っていたのは、どこへでも自由に行くことができる切符だった。


 どこへでも行ける……ぐっと、胸が詰まる思いがした。


「結衣?」


 新井さんの声がする。

続きを読まないといけないのに、あたしは文字を追うことができなかった。


「結衣、どうした?」


 あたしは両手で本を広げたまま、固まっていた。

仕事中なのに、ちゃんとしないとだめなのに……声が出ない。


「ごめん……ごめんなさい」


 かすれた、吐息に音が乗っただけのような声が出た。

もうたまらなくて、あたしは本を机に置いて両手で顔を覆う。


 何をしてるんだろう……本を読まないと、ここにだっていられなくなってしまうのに。


「なにがあった?」


 新井さんの声に体の奥がぞくりと震える。

低くて甘い……するりとあたしの中に入ってくるような、優しい声だった。


「なにか、つらいことがあったのか?」


 体の芯を撫でるような声に、あたしの中のざわめきが大きくなる。


 なぜだろう……いつも部屋を柔らかく照らしているはずの青い光が、今は深い闇を際立たせているように感じる。

まるで線路の果て、誰も降り立つことのない終着駅にふたりで取り残されたみたいだ。


「ジョバンニの、どこへでも行ける切符が……うらやましくって」


 うつむいて声を発すると、波紋が広がるみたいに部屋の空気がぐわんとゆがむ。


 どこへでも行ける切符……人間関係のしがらみも、重苦しい空気も、自分自身の弱さからもすべて自由になって、どこへだって好きなところへ一直線に行ける切符……そんなものが、本当に、本当に存在するんだとしたら……


「あの、あたし……人のなかに入っていったりとか、人と、その、話したりするのがあまりうまくできなくて……」


 話しだすともう止まらなかった。

まるで張りつめていたものが一気にあふれだしたみたいだ。


「それで、学校とかもあまり楽しくなくて、このままじゃいけないのはわかってるんだけど、でも、世の中と距離をおいてるうちに、どんどん『普通』の世界が怖くなって」


 自分の存在を誇示するような、まるで威嚇するみたいな笑い声……前は少しうるさいくらいに思ってたけど、今では恐怖を感じるようになった。


「きのう、あたし、すごいきれいなアクセサリーをもらって、その、お姉ちゃんの彼氏だったんだけど、くれたの、その、それがすごく素敵で、嬉しくて」


 もう何を言ってるのか自分でもよくわからなかった。

こんなんじゃ現代文は0点だ。


「すごい、嬉しかったのに、ありがとうって言えなくて、あたしのために、誠さんが選んでくれたのに……あたし、言えなくて」


 すごく素敵だった。


 キラキラして、どこへでも飛んでいけそうで、まっすぐで、力強くて、優しくて……でも、触れることはできない。


 だって、誠さんは社会の『内側』にいる、ちゃんとした人だ。

誠さんと同じ世界には……


『虫ついてるよ』


 石が落ちてきたみたいに、胸が重くなる。


『結衣は陰気だから』


『わけわかんない』


 誠さんと同じ世界にいくには、あの言葉に、あの視線にさらされなければいけない。

人をバカにして、自分たちと違うと判断したものを排除して、なにが楽しいのか、動物が吠えるようなけたたましい笑い声をあげる。


 でも、きっとお姉ちゃんの方が『正しい』んだろう。

こんなことで傷ついてしまうあたしの方が『異常』なんだ。


「あたし、怖いの……その、世の中、どこにいっても、あたしは輪の中に入れないんじゃないかって、あたし、あたしの居場所なんて世界のどこにもないんじゃないかって……」


 どこへいっても、いつのまにか隅っこに追いやられて、気づけばいてもいなくても同じ存在になっている。

透明人間みたいに、何も感じていないふりをして、平気な顔をして、ただ時間をやり過ごす。


 それは、本当に生きていると言えるんだろうか。


 いっそ消えてなくなってしまえたらいいのに、あたしの心も体も、どうしようもなくここにある。


 体が熱い。


 心の中にたまっていたものが、全部口から出てきてしまったみたいだ。

激しく心臓がどきどきして、息が荒くなる。


 あたしの心の奥底の思い……自分でも全貌をつかめなかった感情を、全てさらけだしてしまった。

なんだろう、今日のあたしは、変だ。


 興奮して、なんの関係もない新井さんにこんな話を聞かせて、完全におかしい状況なのに、どこか清々しい気分でもあった。


「ごめんなさい……こんな話」


 どうしよう、続きを読むような雰囲気じゃないし、かといってこのまま部屋を出るのも変な気がする。


 あたしはすがるように新井さんを見た。


 瞬間、心臓が止まるかと思った。


 新井さんは、瞬きもせず、射抜くような鋭い眼であたしを見ていた。

ぎらりと、新井さんの眼が怪しく光る。


「結衣」


 新井さんはゆっくりとあたしの名前を呼んだ。

あたしは魔法でもかけられたように動けなくなって、新井さんの次の言葉を待った。


 喉がカラカラに渇いて、息がうまくできない。


「お前、何が欲しいんだ」


 ぞくっと、背中に得体の知れない震えが走る。


 心を直接触られるような、いちばん弱くて柔らかい部分を優しく撫でられるような、そんな声だった。

胸の中に生まれたざわめきは青い電光みたいに瞬く間に全身を巡って、甘いような、苦しいような、感じたことのない妙な感覚があたしのなかで暴れ回る。


「あたしが……欲しいもの?」


 あたしはかすれた声で言った。

なんでこんなに苦しいんだろう……まるで、息の仕方を忘れてしまったみたいだ。


 新井さんはあたしをまっすぐ見つめたまま言う。


「切符か? アクセサリーか? それともその、誠とかいう男か?」


 じわりと、新井さんが声を発する度に波が広がって、触れた部分が少しずつ侵食されていく。


「違うだろ?」


 新井さんが言ってることの意味は正直よくわからなかった。

ただ、新井さんの口から生まれる音が甘い振動になってあたしの中心を容赦なく揺さぶってくる。


 落ち着かなくて、ざわざわして、苦しい……でも、ずっと味わっていたい妙な響きだった。


「結衣、裸になれ」


 え、そんな急に何を……? でも、いいか、新井さんなら。


「ああ、バカ! 違う」


 迷わずシャツに手をかけたあたしを新井さんはあわてて制止する。

なんだよ……自分で言ったくせに。


「えーと……裸になるって言うのは、服を脱ぐわけじゃなくてだな……その、本当の心を見失うなって言いたかったんだ」


 少し調子が狂ったように新井さんは言った。


「本当の……心?」


 新井さんはゆっくり頷く。


「結衣、お前がな、この社会に馴染めないのは、お前が悪いんじゃない」


 いきなり話が飛んだな……よくわからないけどとりあえず頷いておく。


「今の社会は、奴隷であふれている」


 新井さんの眼が再び鋭く光ったとき、あたしはようやくわかった。

いまから始まるのは、新井さんが目指していた理想社会の話だ。


 にわかにさっきまでのざわつきが戻ってきて、心臓が鳴る。


「自分の頭で考えることを放棄して、何が欲しいのかもわからないまま、作られた価値基準に疑問も抱かずに、誰が決めたのかもわからない『幸せ』の形に自分を当てはめようと必死になっている」


 ゆっくりとした、独特のリズムで新井さんは話す。


「恋愛、結婚、家庭、仕事、金……みんな同じものを求める。それが本当に欲しいのかなんて考えもせずにな」


 新井さんの鋭い眼、吸い込まれてしまいそうだ。


「これが、奴隷でなくて何だ?」


 耳をくすぐるような声は、あたしの心の中を探っているかのようだ。


「今の教育も、報道も、奴隷を作り出すためのものだ。何故か? 今の社会を牛耳る資本家にとって、その方が都合がいいからだ。人生を奪われ続けていることに気付きもせず、皆、周りに過度にあわせて、空気を読んで、喜んで自らを鎖につないでいる……愚かにもな」


 新井さんの声が、視線が、あたしの中にじわりと侵入してくる。

気道が急に狭くなったみたいに、喉の奥がきゅっと苦しくなる。


「結衣」


 いちだんと甘い声で名前を呼ばれて、体中に絡まっていたざわめきが渇きのような切なさに変わる。


「これが、お前が世界に感じていた違和感の正体だ」


「あたしが、世界に……?」


 新井さんの強い視線に搦め捕られそうになる。

いや、もうとっくに捕えられていたのかもしれない。


「お前は、奴隷ではないんだ。奴隷の価値観に毒されずに、お前は自らの意思で立っているし、生きている」


「あたしが……?」


 新井さんはゆっくり頷く。


「お前が世の中に馴染めなかったのも当然だ。鎖につながれていないお前には、自らを縛り合っている奴隷達の世界は窮屈で耐えられないだろう」


 あたしが感じていた疎外感……あたしの決して入ることができなかった『輪』は、奴隷の鎖だったの……?

じゃあ、あたしが欲しくてたまらなかったものは……


「奴隷になるな、結衣」


 新井さんの低い声が響く。

あたしはごくりとのどを鳴らす。


 きっともう、あたしは今日までのあたしには戻れない。


 考えるまでもないことのように、ずっと前からわかっていた答えのように、あたしはごく自然にそれを受け入れていた。


「縛られるな、結衣。裸になれ……本当の、お前が本当に求めているものは、何だ」


 目を閉じて自分に問いかける。

あたしが、裸のあたしが求めてるもの……あたしが本当に欲しいもの。


「あたし……」


 体はさっきからずっと熱くて、息はずっと苦しくて、あたしの中で嵐みたいに荒れ狂う思いが出口を求めて喉に上がってくる。


 あたしは、ゆっくりと目を開けた。


「あたし、あたしを見てほしかった……あたしがここにいるって、ここにいていいんだって、言ってもらいたかったの」


 それが、何にも縛られない、あたしの叫びだった。


 心臓が激しく鳴って、息が上がっている。


 知らなかった……裸の心をさらけだすのは、こんなに苦しくて、こんなに……耐えがたいほど甘美なものだったなんて。


「結衣」


 新井さんが手を伸ばしてあたしの頰に触れる。

心の底まで貫くような鋭い眼があたしを見つめる。


 飲み込まれてしまう……いや、飲み込んで欲しい。

丸ごと飲み込まれて、新井さんの中に入ってしまえばいい……そう思った。


「大丈夫だ、お前はここにいる」


 新井さんの手のひらが触れた頬から、細胞がものすごい速さで分裂して、あたしが別のものに変わっていく気がした。

それは、意識が飛びそうなほどの快感だった。


「この国は狂っている……国民は奴隷に成り下がり、静かに滅びに向かっている」


 至近距離で新井さんの声を聞いて、震えるほど甘やかな波に身体中が満たされていく。


「俺たちは近く、この狂った国に革命を起こす……奴隷を、鎖から解放するんだ」


 あたしは目を見ひらく。


 新井さんの理想社会は実現できなかった夢じゃない。

いまも、あったんだ……ここに。


「結衣、お前も来い」


 世界がひっくり返った。

あたしは、ずっとこの部屋、この家は現実感がないと思っていた。


 違う。


 ここが、この町の片隅の小さな家の中こそが現実……こっちの方が『世界』だったんだ。

どこへでも行ける切符を、あたしはすでに持っていたんだ。


「ついて行きます」


 気づいたら、あたしの頬は涙で濡れていた。


「ついて行かせてください」


 新井さんはあたしの涙を指先で拭うと、満足そうに笑った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ