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第5話 牛乳屋さんと不思議な白い粉

 封筒から束になった千円札を取り出して眺める。


 数日で結構な額になった。

あたしが初めて稼いだ、あたしのお金だ。


 何に使おう……そもそも、あんまり欲しいものもない。

美容院に行って髪でも染めてみようか……ももちゃんみたいに明るい色にしたら気分が変わるかもしれない。

いや、あたしには似合わないかな。


 お母さんに何かプレゼントを買うのはどうだろう。

簡単なものでいいから、いつもありがとうって気持ちを伝えられないだろうか。


 でも、きっとお母さんが本当に望んでるのは、進学か就職か、とにかくあたしが『普通』の世界に戻ることだ。

その願いを叶えることは当分できそうにない。


 ため息をついてお札を封筒に戻したとき、ふと思いついた。 





「料理を教えて欲しい?」


 梅の実をもぎながらみゆきさんが言った。


「あの、お母さんに何か作ってあげたいと思ったんだけど、料理をしたことがないからよくわからなくて。その、みゆきさんのごはん、すごく美味しいから、よかったら教えてもらえないかと思って」


 言いながら顔が赤くなるのがわかる。

やっぱり、こんなお願い図々しかっただろうか。


「そんな大したものは作れないけど……いいわよ、明日にでもやりましょうか」


 みゆきさんは首にかけたタオルで額の汗を拭うと笑った。


「はい、よろしくお願いします!」


 あたしは梅がいっぱいに入ったカゴを抱えたまま頭を下げる。

新緑に透ける初夏の日差しが眩しかった。





 えっと、しょうゆが大さじ2で、みりんが大さじ1で……


 手際よく玉ねぎを薄切りにしていくみゆきさんの手元を見ながら急いでメモをとる。

ああ、字がめちゃくちゃだ……ちゃんと解読できるかな。


「キャベツの千切りは一枚ずつ芯を取って、こうやって少しずつ切っていくと細く仕上がるから」


 言われた通りやってみるけど、全然うまくいかない。

きっと、みゆきさんの域に達するにはもっと修行が必要なんだろう。


「最初はそんなものよ」


 不揃いのキャベツを水につけながらみゆきさんは笑った。


 フライパンで豚バラ肉と玉ねぎを炒めると、香ばしくて食欲をそそる香りが広がる。


「それでね、ここからがいちばんの秘訣なんだけど」


 ぎこちない手つきで菜箸を動かすあたしの横で、みゆきさんがイタズラっぽく言った。


「これ、どんな料理も美味しくなる魔法の粉なのよ」


 言うが早いか、みゆきさんは白い粉をフライパンに振り入れた。

思わずあたしはごくりとのどを鳴らす。


 その、不思議な白い粉はうちにもある。

ひと振りでなんでも美味しくなる魔法の粉だ。

ただ、みゆきさんのひと振りは、あたしの知っているひと振りとは違った。


 まるで富士山の頂にかかる雪のようにしょうが焼きの上に積もった粉は、やがて料理の中に溶けていった。


「なにやってんの?」


「きゃあ!」


 背後から急に声がして思わず声をあげる。

振り返ると若い男の人が真顔で立っていた。


「この子は結衣、朗読に来てくれてるの」


 横でみゆきさんが紹介してくれた。


「はじめまして」


「あ、ども、ヒカルっす」


 あたしが頭を下げるとつられたようにヒカルさんも軽く礼をする。


「いつもありがとうね」


 みゆきさんが笑顔で言うとヒカルさんは台所の机に袋を置いた。


「ヒカルくんは新潟の牧場で働いててね、いつも配達に来てくれるの」


 袋の中身は牛乳とアイスクリームだった。


「この牛乳がね、おいしいのよ」


 嬉しそうに言いながらみゆきさんは冷蔵庫に牛乳とアイスクリームを入れた。


「あ、じゃあこの前のアイスも」


 あたしの言葉にみゆきさんは頷いた。

口の中でとろける、濃厚なミルクの味を思い出す。

ああそうか、だからコーヒーもあんなにおいしかったんだ。


「で、結局なにしてたの?」


 ヒカルさんは再びあたしを見た。


「しょうが焼きを作ってるのよ」


 みゆきさんが言った。


「いや、それは見たらわかる。なんで朗読に来た子が台所で料理してんの?」


 ヒカルさんはあたしの横に立ってじっと手元を見つめる。


「あの、あたし、みゆきさんに料理を教えてもらってて」


 あたしはフライパンから目を離さずに言った。

なんだか、見られてると思うと緊張する。


「へえー、この家でこんなハートフルな光景はじめて見たわ」


 ヒカルさんはそう言うとフライパンから肉をつまんで口に入れた。


「熱っちい! あ、でもうまいな」


 白い粉の効果はばつぐんだ。


「食べていったらいいじゃない」


 みゆきさんの言葉にヒカルさんは首を振った。


「いや、まだ配達残ってるから、俺はこれで」


 ヒカルさんはあたしに向きなおると声を落として言った。


「あのエロジジイには気をつけろよ」


「え?」


 思わず聞き返す。

エロジジイって……新井さんのことだろうか。


「こら、変なこと言わないで。結衣が本気にするでしょ」


 聞き捨てならないといった顔でみゆきさんが言った。


「いやだって、本を読むだけならババアでも、男でもいいわけじゃん? いつも可愛い女の子ばっかりだから、ジジイの好みなんだろうなあと思って……」


「違います! だいたい結衣は私が連れてきたんだから、ねえ?」


 みゆきさんが同意を求めるようにこっちを見る。

でも、あたしが引っかかったのは全然違うところだった。


「男の人から、可愛いって……はじめて言われた」


 ヒカルさんは一瞬きょとんとした後、ふっと笑った。


「いや、結衣、マジで可愛いな」


 ヒカルさんが笑うとすうっと目が細くなって、なんだか幼い顔になった。





 玉ねぎを半分に切って、頭と根っこを落とす。

皮はどこまでむいたらいいのか、全体が白くなるまでむくと食べられる部分まで捨てているような気がしてくる。


 それにしてもゴミがたくさん出る……野菜を切る前に生ゴミ用の袋を用意しておけばよかった。


 やっと玉ねぎの薄切りができた……()切りかどうかは少し怪しいけど。

あと、キャベツと大根と、小松菜も切らないといけないのか。

ああ、あと生姜もすらないといけないし、油あげの油抜きもしてないし、そもそもご飯を炊くのを忘れていた。


 まな板を見てため息をつく。

なんでこう要領が悪いんだろう。

夕ごはんまでの道のりは途方もなく遠そうだ。





「ええっと、なにか手伝うことない?」


 お母さんはさっきから3回くらい同じことを聞いている。


「大丈夫だよ。お母さんは座ってて」


 あたしは味噌を溶かしながら同じ答えを返す。

だいぶ手際は悪かったけど、どうにか完成できそうだ。


 お母さんはまるで定位置をあたしにとられたみたいに、所在なさげに椅子に座っていた。

テレビでも見ててくれたらいいのに……見られてると思うと落ち着かない。


「ただいまー」


 お姉ちゃんがリビングに入ってきた。


「あれ、どうしたの?」


 普段と様子の違う台所を見てお姉ちゃんは不思議そうに言った。


「今日は結衣がごはんを作ってくれてるのよ」


 お母さんが笑顔で答える。


「アルバイト先で習ったんだって、結衣は優しいね」


 お母さんからそんなふうに言ってもらえるなんて、やっぱり教えてもらってよかったな。

嬉しくて口もとがゆるむのを、きゅっと力を入れてこらえる。


「ふーん」


 お姉ちゃんは興味もなさそうにあたしの手元をのぞきこんできた。


「しょうが焼きを作ってるの。簡単だし、初めてでも美味しくできるからって」


 言いながらフライパンで玉ねぎと豚肉を炒める。

あとは、玉ねぎの色が透き通ってきたらあわせた調味料を入れて、最後に魔法の粉をかけたら完成だ。


「あんたさ、もうその爺さんと結婚したら?」


 耳に飛び込んできた言葉に表情が凍りつく。

思わず横を向くとお姉ちゃんがニヤニヤ笑っていた。


「話聞いてるとさ、古いとはいえ持ち家だし、専属のお手伝いさんまでいるんでしょ? 年金だけでそんな生活できないし、相当貯めこんでるって。10年も我慢すれば遺産で遊んで暮らせるんじゃない?」


 菜箸を持つ手元が震える。

だめだ……そろそろ調味料を入れないといけないのに。


「そのくらいの年齢の人だったら、あんたみたいな素朴な見た目でも十分戦えるっていうか、むしろそっちの方がいいまである……若さで勝負よ」


「めぐみ!」


 お母さんがたしなめるように言った。


「変なことばっかり言ってないで、あんたも少しは家のこと手伝ったらどうなの」


「はいはーい、着替えてきます」


 お姉ちゃんはふっとため息をつくと2階へ上がっていった。


 あたしはぼう然とフライパンを見つめた。

お姉ちゃんの馬鹿にしたような笑みが頭から離れない。


 あたしにとって、新井さんも、あの家も、すごく大切で……いまのあたしにはきっと必要な場所なのに、なんでお姉ちゃんのものさしで勝手にはかられて、好き放題に言われないといけないんだろう。


 普通っていうのは、そんなに立派なことなんだろうか。


 透き通るまで炒めるはずが、玉ねぎは少し焦げてしまった。





「いただきます!」


 食卓で手を合わせる。

ごはんとお味噌汁、しょうが焼きに大根の梅あえ。

梅あえの梅干しは収穫を手伝ったお礼にと分けてもらったものだ。


 どうにか食卓までこぎつけて感慨深い。

こんな普通のごはんを作るのが本当に大変だった。


 ちゃんとできてるか心配だったけど、どれもすごくおいしかった。


「あ、これ美味しい」


 お姉ちゃんがしょうが焼きを食べながら感心したように言った。


「今度、誠に作ってあげよ。作り方教えてよ」


 さっき嫌なことを言ったのに現金なものだな。

まあいいや、あとで魔法の粉の使い方を教えてあげよう。


「副菜もちゃんとして、すごいわねえ」


 お母さんも嬉しそうに言った。


 こんなことで喜んでもらえるなら、もっと早くやればよかった。

もっと色々作れるようになりたいな。


 お味噌汁をひと口飲むと、体がぽかぽか温かくなる気がした。

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