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第4話 マーマレードと桃の花

「今度さ、(まこと)がうちに来るから」


 夕ごはんを食べ終わった後、洗った食器を拭きながらお姉ちゃんが言った。


「まこと?」


「彼氏、あたしの」


 聞き返すあたしにお姉ちゃんはにこりともせず言った。


「ああ」


 そういえばそんな名前だったか。

確か、お姉ちゃんと同じ大学の学生だ。


「うちの家族にちゃんと挨拶したいって言うから、まあそれはいいんだけど……」


 お姉ちゃんは重ねた皿を食器棚にしまうと、あたしをちらっと見た。


「あんた、お願いだから変なこと言わないでよ」


「変なこと?」


 シンクに残った水滴を拭き取る手が止まる。


「一応、誠には『自分探し中の心が疲れちゃった妹がいる』って言ってるけど」


 お姉ちゃんは視線を食器棚に戻す。


「なんていうの、あんたがフラフラしてるせいで、うちまで異常な家だと思われるかもしれないし……とにかく、絶対に余計なことは言わないで、おとなしくしててよ」


 お姉ちゃんは言い切ると、振り向かずに台所を出ていった。

あたしは台拭きを握ったまま、しばらくその場から動けなかった。


 急に全身が冷たくなった気がした。


 いま、自分がどんな気持ちなのかわからない。

愉快な気分じゃないのは確かなんだけど、怒ってるのか、それとも悲しいのか、よくわからない。


 あたしは、いわゆる『普通』の世界から外れたところにいる。

みんなで手をつないで、輪を作って……その中にいることが耐えられなくなったからだ。


 確かに、あたしは異常なんだろう。

でも、そのことでお姉ちゃんに何か嫌な思いをさせただろうか。

なんであんなふうに言われないといけないんだ。

それとも、あたしの存在自体がもう、お姉ちゃんにとっては迷惑なんだろうか。


 ぎゅっと唇を結ぶ。


 もう、なにも考えたくない。

早くあの部屋へ行きたい。

新井さんの側で、物語の続きを読みたい。





 青い光に包まれた部屋は、今日も深い森の中のような静けさをたたえていた。


 この部屋にいると、もう何に心を乱されることもなく、ただひたすらに物語の世界に沈んでいけそうな気がする。


 やっと銀河鉄道が出てきた。

輝く光の中で乗り込んだ列車にはカムパネルラも乗っていた。

微妙な立場になってしまったせいでカムパネルラに話しかけることができなかったジョバンニだけど、ここではそんな地上でのしがらみは関係ない。

カムパネルラと一緒の鉄道の旅が始まった。


「よし、そこまで」


 新井さんの声を聞いて、あたしは息をついてソファに背中をあずけた。


 いいな……あたしも銀河鉄道に乗りたいな。

でも、あたしにカムパネルラはいるんだろうか。

とっておきの旅路を共にしたいほど好きな人なんているんだろうか。


「どうした?」


 ソファから立ち上がらないあたしを妙に思ったのか新井さんが声をかける。

なんだろう……この部屋で聴く新井さんの声は妙に甘ったるくて、いつまでもあたしの体に残る。


「もし、あたしが銀河鉄道に乗ることがあったらさ」


 あたしはまだ物語の世界から戻っていないような気分でつぶやいた。


「新井さんも一緒に来てくれる?」


 たわいもない質問のつもりだったのに、新井さんは驚いたような顔であたしを見た。


「お前……縁起でもねえこと言うなよ」


 盛大なネタバレをされたことに気がついたのは、もう少ししてからだった。





 暗い書斎を抜けると、明るいピンク色が視界に飛び込んできた。


「おつかれー」


 ピンクブロンドの長い髪に琥珀色の瞳、まるで外国のアイスクリームみたいにカラフルな女の子が居間でくつろいでいた。


「あ、はい……」


 不意打ちの初対面に思わず固まる。

なぜだか今まで、この家に出入りしてるのはあたしだけだと思っていた。


「あたし、ももかっていうの。よろしくね」


 彼女が笑うと、頬にえくぼが浮かんで懐っこい顔になる。


「あ、終わった?」


 台所からみゆきさんが顔を出した。


「この間の夏みかんでマーマレード作ったから、アイスにかけて食べましょ」





 透き通ったマーマレードがたっぷりと乗ったアイクリームを口に運ぶ。


「ああ、美味しい」


 白色のアイスはバニラかと思ったけどミルク味だった。

濃厚なミルクの香りが甘酸っぱい夏みかんと口の中でひんやりと溶ける。


「ももちゃんはね、前に朗読をしてくれてたの」


 みゆきさんが言った。


「じゃあ、あたしの前にやってたのって……」


 あたしの言葉にももちゃんは首を振った。


「ううん、あたしがしてたのはもうずっと前」


 あ、そうなんだ。

あたしとそんなに年は変わらなそうに見えるのに……もしかしたら学校帰りに来ていたのかもしれない。


「今は違う仕事をしてるんだけど、ひとり暮らしだし、たまにこうやってみゆきさんのご飯食べに来てるんだ。今日はそろそろマーマレードの季節かなーって思って」


 そう言ってももちゃんはコーヒーを飲む。

マグカップには桃の花が咲いていた。


 そういえば、あたしのマグカップも前と同じ紫陽花だ。

もしかしたら、これはあたし専用のカップなのかもしれない。

そう思ったらなんだか胸が熱くなった。


 コーヒーを飲みながら眺めた庭では紫陽花の花が咲き始めていた。


「ねえ、結衣も一緒にごはん食べていこうよ。みゆきさんのごはん美味しいんだよ」


 ももちゃんが笑顔で言った。

名前を呼ばれてなんだかくすぐったいような気分になる。


「ねえ、今日のごはん何?」


「今日はね、冷しゃぶ」


 甘えたような声のももちゃんにみゆきさんもなんだか得意そうに答える。


「やったあ! ね、結衣も食べてこ」


「え、でも、本当にいいんですか?」


 あたしはおずおずと尋ねた。

誘ってもらえたのが嬉しかった。

ももちゃんともっと話したかったし、それに、夕飯の席でお姉ちゃんと顔を合わせるのが少し憂鬱なのもあった。


「かまわないわよ。3人も4人も同じだし、大勢で食べるほうが美味しいでしょ」


 みゆきさんはにっこりと笑った。





「新井さんは昔、独自の思想を持つ組織のリーダーだったんだよ」


 空に星がちらほら見え始めた中、あたしはももちゃんと大通り沿いの坂を下っていた。


「え……それって、宗教とか?」


 あたしの言葉にももちゃんは少し考えてから口をひらいた。


「ううーん……そういう感じじゃなくて、でも、世の中を変えようとしてたんだって」


「世の中を?」


 ももちゃんは頷いた。


「結局そんな大げさなことできなくてさ、組織はだいぶ前に解散しちゃったんだけど、いまでも新井さんの思想を支持してる人達が……みゆきさんもそうなんだけど、支援してるんだって」


 そうだったんだ……確かに新井さんは普通の人と違う、独特の雰囲気を持っている。


「ただのジジイじゃないんだよ」


 ももちゃんはニヤリと笑った。


「うさんくさいと思った?」


 あたしはあわてて首を横に振る。

ももちゃんはあたしの反応を別段気にしていないのか歩きながら話し始めた。


「あたしね、地元にいるのがしんどくなってこっちに出てきたんだ」


 公園の前にある自治体の掲示板をちらっと一瞥すると、ももちゃんは視線を前に戻す。


「でも、いろいろナメてたっていうのか、何やってもうまくいかなくて、お腹すいてお金もなくて、捨て猫みたいになってたときにみゆきさんに声かけられて……ごはん食べさせてもらって、親切にしてもらったんだ」


 あたしはみゆきさんに話しかけてもらった時のことを思い出した。

行くところがなくて、幽霊みたいに図書館をさまよっていたあたしを、みゆきさんは見つけてくれた。


「なんかさ、世間的にいったら、思想とか支援とか、ちょっとヤバい家っていうか……やっぱり普通じゃないんだと思う。でもさ、そんな場所だから救われたのもあって」


 ももちゃんは笑顔であたしの顔を見た。


「普通じゃないのも、悪くないかなって今は思ってる」


 バスで帰るももちゃんとは市民ホールの前で別れた。


「なんかめっちゃ語ったっていうか、あたしばっかり話しちゃってごめん。また話そうね」


「うん、また話そう」


 いつもの道を歩きながら、なんの感情なのかドキドキがおさまらなかった。


 まるで重りが外れたみたいに足が軽い。

今日一日で『普通じゃない』の意味がひっくり返ったみたいだ。


 生温かい風があたしの横を通り過ぎていく。


 夏が近づいている。

見上げた空には星が光っていた。

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