第3話 酸っぱい果実とふすまの奥の妖怪
パチン! とハサミの音が鳴る。
「はい」
木の上のみゆきさんから夏みかんを手渡される。
黄色の果実はずっしりと重みがある。
夏みかんをカゴに入れたらすぐに次が渡されて、みるみるうちにカゴはまぶしい黄色でいっぱいになった。
「これ、夏みかんだったんですね」
縁側に腰掛けて果実に残った枝を根元で切りながらあたしは言った。
あたりにたちこめる甘酸っぱい香りを涼しい風が散らしていく。
「手伝ってくれてありがとうね」
あたしの5倍くらいの速さで作業をこなしながらみゆきさんが言った。
「香りはいいんだけど、酸っぱくて食べられたものじゃないのよ。毎年マーマレードにしてるの」
みゆきさんは枝を切り終わった夏みかんのカゴを台所に持って行くと麦茶を持って戻ってきた。
「ああ、おいしい」
渇いた体の隅々まで冷たい麦茶が染み渡っていくみたいだった。
思えば、こんなふうに外で体を動かしたのはものすごく久しぶりかもしれない。
「お昼ごはんまだでしょう、一緒に食べない?」
あたしが頷くとみゆきさんは焼きそばを作ってくれた。
もやしと豚肉が入った塩焼きそばは、味がしっかりついてるのにしつこくなくて、麺がふっくらして美味しかった。
「みゆきさんって料理上手ですよね」
お腹が空いてるからってのもあるかもしれないけど、シンプルな材料なのに本当に美味しい。
「毎日作ってたら嫌でも上手くなるのよ。でも、そう言ってもらえると嬉しい」
みゆきさんは焼きそばを食べながら笑った。
そんなものなんだろうか。
でも、こういうふうに簡単なものをさっと美味しく作れるのは、真の料理上手な気がしてなんだかかっこいい。
焼きそばを食べ終えてしまったとき、物音もなくふすまがすっと動いたのであたしはびくっとした。
「結衣、まだあ?」
半開きになったふすまの奥から目を光らせてじっとこちらを見る新井さんは、まるで新種の妖怪のようだった。
そして見た目はこんななのに、体の芯を震わせるような……やっぱり独特の甘い声をしている。
「ちょっともう、いまお昼ごはんなんですから、待っててください」
みゆきさんが言うと新井さんは半身だけ出してちゃぶ台の上をじっと見た。
「ずるいぞ、お前たちだけ」
「新井はさっき食べたでしょう」
「お腹は空いてないけど、焼きそばくらいなら頑張れば食べれる」
「がんばらなくていいの、新井の分は用意してませんから」
どこか甘えてるような新井さんをみゆきさんは冷たく突き放す。
軽いやりとりの中にふたりの親しさというか、過ごしてきた時間の長さを感じてなんだか微笑ましい気分になった。
でも、ふたりはどんな関係なんだろう。
お手伝いさんって感じでもないし、恋人にしては年が離れすぎている。
「結衣、仕方ないからもうちゃっちゃと読んであげて」
みゆきさんの言い方が面白くて笑ってしまった。
「はい」
あたしが返事をすると、「ちゃっちゃ〜♪」と楽しそうに言いながら新井さんは部屋に入っていった。
◇
相変わらず静かな空間は、青い光で満たされている。
あたしはゆっくりと物語を読み上げていた。
前は単純に、この部屋で声を響かせながら文章を読み上げることが気持ちよかった。
でも、ただ文章が美しいだけじゃない。
読み進めるうちにあたしは、まるで誘い込まれるように物語の世界に浸っていった。
主人公のジョバンニは、お互いの家を行き来するくらいカムパネルラと仲がよかった。
でも、今は学校で言葉を交わすことはない。
ジョバンニを仲間はずれにすることが、いまの『空気』だからだ。
祭の夜、カムパネルラは学友に囲まれて、ジョバンニに何か言いたげな視線を向けるけど、彼に声をかけることはない。
ジョバンニを気にかけていながら、カムパネルラもまた『空気』に逆らうことはできないのだ。
「そこまで」
新井さんの声にはっとして、あたしの意識は青い部屋に戻ってきた。
まただ、今日も銀河鉄道に乗れなかった。
「また、読みに来い」
新井さんが静かに言った。
「はい」
あたしは本に栞を挟んで机の上に置くと、深々と頭を下げた。
「これからもよろしくお願いします」
◇
あれは、いつ書かれた物語なんだろう。
昭和? 大正? それとも、もっと前?
そんなに昔から、同じことがあったんだ。
ちょうど下校時刻だったのか、小学校低学年くらいの男の子たちとすれ違った。
あれくらいの時はよかった。
人見知りすることはあっても、一緒に遊んでいるうちに仲良くなれた。
いつ頃からか、人は輪を作りはじめる。
見えないルールに従って手をつないで、『内側』に入れないものを少しずつ排除していく。
かつて、見えないルールのなかった時代の友達でも、『外側』にいってしまったものに手を差し伸べることは簡単ではない。
和を乱すことは許されないのだ。
足どりが重くなる。
あたしはいったいどこへ向かっているんだろう。
この世界にあたしの居場所なんて本当にあるんだろうか。
『また、読みに来い』
ふと、あの静かな部屋と新井さんの声を思い出す。
沈んでいた心が少しだけ浮上したような気がした。
そうだ、まだ物語は始まったばかり。
あの本を読み終えるまでは、朗読を続けよう。
その先のことはそれから考えても、きっと遅くはないはずだ。




