第21話 愛の戦士と破れた羽
めぐみが忘れられない。
めぐみをひと言でいうなら、バーベキューにミニスカートとハイヒールで来た上にほかの女子に向かって「もっとオシャレすればいいのに」とか言い放つ女だ。
そして、俺はそんなめぐみを愛するために生まれてきた。
はじめてめぐみを見たとき、それまで考えたことすらなかった、しあわせとかいうやつの正体をいきなり全て理解した。
俺がこの時代に生まれたのも、東京に来たのもすべてはめぐみと出会って愛し合うためだった。
めぐみのためなら死んだっていいと思った。まじで。
大きいカラーコンタクトに、明るい髪。
バルログみたいな長いネイルと体のラインを見せつけるような派手なデザインの服は、大学では少し浮いていた。
そして皮肉っぽいというか、どこかトゲのある言動も相まって、めぐみのことを嫌っている女子も多かった。
それが単なる好みや性格ではなく、めぐみなりの武装だったことは付き合っていくうちにわかってきた。
派手な外見や攻撃的な物言いで、めぐみは必死に弱い自分を守っていたんだ。
それなら、そんな武装が必要なくなるように隣でめぐみを守って、めぐみに「好きだ」「大好きだ」と言い続けること、それが俺に与えられた使命だと思った。
でも、どうやらめぐみの方では違ったらしい。
「今までありがとう」
あの日のめぐみの言葉は、一言一句、細部までありありと思い出せる。
「誠があたしのこと好きって、大好きって言ってくれて本当に嬉しかった。
あたしはここにいていいんだ、あたしをこんなに好きになってくれる人がいるんだって思うと、大げさじゃなくて、本当にすごく救われてた。
だから、誠には本当に本当に感謝してる。
あたしのこと大好きなんだって気持ちはいつも伝わってきて、嬉しかったし、一緒にいるとすごく満たされたし、本当に楽しかった。
でも、あの人と出会って、わかったの。
あたし、誠のこと、全然好きじゃなかったんだって。
本当に人を好きになるっていうのがどういうことか、あの人に出会ってわかった。
だから、ごめん……本当にごめん、別れてください。
いままでありがとう。
あたしのこと好きになってくれて、本当にありがとう」
そこには普段の皮肉な物言いは影もなかった。
いちばんまっすぐで、いちばん残酷で、妙にグロテスクな、むき出しの本心だった。
「それなら……そいつとうまく行かなくなったら、俺のところに戻って来いよ」
俺はそう言おうとしてやめた。
いや、言おうとしてやめようとして、結局言ったんだっけ?
確かなのは、めぐみが悲しそうな目で俺を見ていたことだけだ。
めぐみは俺に生まれた意味と使命と幸せを教えてくれて、それをまるごと取り上げていった。
◇
明け方の海は静かだった。
失恋して海を見にくるようなセンチメンタルが自分の中にあるなんて知らなかった。
朝日に輝く水面は妙に感傷を誘う。
きっと、こんなとき煙草を吸いたくなるんだろうな。吸わないけど。
そろそろ帰るか……すっかり冷たくなった缶コーヒーをぐっと飲み干して立ち上がる。
空き缶を捨てようと立ち並んだ倉庫の間を通ったとき、妙なものを見つけた。
コンクリートの床に、青いアゲハ蝶の髪飾りが落ちている。
踏まれたのか、羽の部分がひしゃげている。
このアクセサリーには見覚えがあった。
夏休みに旅行する計画を立てた時、めぐみが親から「泊まりがけで出かけるなら一度顔を見せろ」と言われたらしい。
めぐみとは結婚するつもりだったし、いずれ行くことになるなら早いほうがいいと思ってすぐに挨拶に行った。
そのときに、2つ年下の妹さんに買って行ったプレゼントだ。
確かめぐみに腐されて、ガラにもないことするもんじゃないなって少し気まずくなったっけ。
それがなんでこんなところに……?
いや、別に駅ビルで売ってたやつだし、同じものを持ってる人はいくらでもいるだろう。
海を見にきたカップルが落としていったのかもしれない。
でも……俺はアゲハ蝶を拾い上げる。
壊れてはいるけど、そこまで汚れていない。
ついさっきまで誰かがつけていたような、妙な生々しさがある。
胸さわぎがする。
まさか……嫌な考えが頭をよぎったときだった。
「ぎゃあああああああ!」
すぐ横の倉庫から断末魔のような悲鳴が聞こえた。
◇
ちょっと待て……これ、ヤバくないか?
失恋つらいとか言ってる場合じゃないぞ。
暴行……? いや、拉致監禁とか。
とにかく、関わりあいになっちゃダメなやつなんじゃないか。
生存本能みたいなやつが全力で警鐘を鳴らしている。
さっき、声がきこえた倉庫の、入り口のシャッターがギシギシいいはじめた。
中から、誰かが開けようとしているのかもしれない。
「助けて! 開けて!」
今度は女の子の声がした。
いよいよヤバい……犯罪の匂いがする。
俺はヒーローじゃない。
社会の闇とかに立ち向かうような気概も力もない。
でも……ひしゃげたアゲハ蝶を見る。
ここで見過ごすのはいかにも寝覚めが悪い。
中には怖い怖いお兄さん達がいて、拳銃とか構えてるかもしれない。
でも、拳銃よりもなぜか日本刀の方が攻撃力が高かったりするのかもしれない。
「助けて! 助けてぇ!」
シャッターの中からは必死な声が聞こえてくる。
くっそ、俺も男じゃ……覚悟を決めろ!
俺は倉庫のシャッターに手をかけると、思いっきり跳ね上げた。
がしゃん、と勢いよく上がったシャッターから現れたものを見て、俺は戦慄した。
長い髪はボサボサで、目は大きく見開かれている。
何も隠すものがない体はところどころすりむけていて、唇の端からはだらりと血が垂れていた。
真っ裸なんだけど、エロいというよりは、なんというか……地獄から逃げてきた罪人のような。
「まこと、さん……?」
「結衣ちゃん!」
鬼のような形相で立っていたのは、かつて一度だけ話したことがある、めぐみの妹……結衣ちゃんだった。
◇
「助けて!」
結衣ちゃんが叫んで、我に返る。
どうやら手を縄で縛られてるみたいで、バランスが取れずによろけている。
縄を解こうにも、きつく結んであって手ではとれそうにない。
「バイクまで行けば、カッターがあるから」
着ていたジャケットをとりあえず羽織らせて、結衣ちゃんの肩を支えながらバイクへ急ぐ。
「助けて、助けて、助けて」
結衣ちゃんはさっきからそればかり繰り返している。
いったい、何があったんだ。
なんでこんなところで、裸で閉じ込められていたんだ。
「じっとして、いま切るから」
工具箱のカッターで縄を切る。
「大丈夫か? 何があった」
俺の質問には答えずに、結衣ちゃんはひどく怯えた様子で言った。
「お願い……助けて、逃げて、早く!」
とにかくこの場を離れたい様子だった。
俺は結衣ちゃんに羽織らせたジャケットのジッパーを上げると、トランクに入れていたヘルメットをかぶせた。
「乗って」
下半身がむき出しのままの結衣ちゃんをバイクの後ろに座らせると、エンジンをかけた。
「飛ばすから、しっかりつかまってて」
結衣ちゃんが俺の腰に手を回したことを確認して、すぐに走り出す。
めぐみの方がでかいな。
車通りの全然ない道路を走りながら、ぼんやりと思った。
◇
「あたしの妹ね、すっごく頭がいいの」
いつだったか、めぐみが言っていた。
「あたしとは頭の出来が違うっていうのかな、満点とっても当然って感じで涼しい顔しててさ、それまで、80点取ればお母さんから褒められてたのに、『勉強だけがすべてじゃない』とか言われるようになってさ」
めぐみは「やんなっちゃう」と言ってため息をついた。
適当に頷いてはいたけど、正直言って、めぐみの気持ちは全然わからなかった。
俺が4人姉弟の中でほったらかされて育ったってのもあるけど、あまり親から褒められたいとか思ったことがなかったし、めぐみが受けさせてすらもらえなかったのに結衣ちゃんは余裕で受かったという『進学校』の名前だって、当然と言えば当然だけど俺は知らなかった。
日が昇って、街は徐々に朝になっていく。
それにしても、変なことになった。
さっきから結衣ちゃんは必死で俺にしがみついている。
これ、どうしたらいいんだろう。
警察……いや、病院か?
「とりあえず、お家に帰ろうか」
しがみつく腕にぎゅうと力が入った。
「こんな、格好で……帰れない」
耳元で泣きそうな声が聞こえた。
まあ、確かにそうだよな。
むしろ、この格好で公道を走ってるのもヤバいと言えばヤバい。
「じゃあ、俺の部屋行こう」
◇
他の住民に鉢合わせないことを祈りながらマンションのエレベーターを上がる。
急いでドアを開けて隠すように結衣ちゃんを部屋に入れる。
うわ……部屋、きったねえな。
洗濯物は積んだままだし、テーブルの上に昨日食べたカップ麺がそのまま乗ってるし、床にはペットボトルが散乱していた。
「ごめん、すぐ片付けるから」
ゴミを片っ端から袋に入れてひとつにまとめたところではたと気づく。
俺はいったい何をやってるんだ。
結衣ちゃんは玄関で放心したようにずっと立ち尽くしていた。
いや、まずは服だろ……服。
俺は引き出しの奥からスウェットの上下を引っ張りだす。
「えっと、とりあえずこれが着替えで……そうだ、シャワー、シャワー使っていいから」
結衣ちゃんにスウェットを押しつけると風呂場のドアを開ける。
「俺、ゴミ捨てるついでにちょっと買い物してくるから、その、適当にしてて」
こくんと頷く結衣ちゃんを残して、俺は部屋を出た。
◇
女の下着ってどんだけ種類あるんだよ……全然わからねえ。
スーパーの衣料品売り場でぼう然とする。
いや……緊急事態なんだし、着られればなんでもいいか。
とりあえずMサイズならいいだろ。
パンツとブラジャーと上下セットのジャージをカゴに入れてレジへ持っていく。
会計をしながらふと思った。
もしかして、シャワーとかしない方がよかったんじゃないのか。
だって……もし×××されてたとして、その、体液とかが証拠になったりとか……
いや、俺は考えをふり払う。
あんな状態だったんだ……証拠とかそんなんより先に、体を休めるほうが大事だろう。
スーパーに併設しているマクドナルドでハンバーガーとポテトを買って足早にマンションに戻る。
「ただいま」
ゆっくりとドアを開けると、結衣ちゃんは部屋の奥、フローリングの上で猫のように体を丸めて眠っていた。
◇
昼前になって、結衣ちゃんは目を覚ました。
「あれ……あたし、寝てた?」
状況がつかめないのか、ベッドの上で戸惑う結衣ちゃんに声をかける。
「おはよう、マック食べる?」
紙袋を見せると、結衣ちゃんはごくりと喉をならしてから言った。
「食べます」
ものすごい勢いでハンバーガーを食べながら、結衣ちゃんは自分の身に何が起こったのかを話し始めた。
結衣ちゃんの話は、なんというか……言葉の意味はわかるんだけど、正直何を言ってるのかは1ミリも理解できなかった。
朗読のアルバイトに行った家で、ジジイから聞いた理想社会……絶対に上手く行かなそうな共同体の話に感化されて、活動資金のために風俗店で働いて、そして『仲間』から旅行に行こうと誘い出されて今朝の状況になったらしい。
なんでも×××しようとしてきた男の金玉を噛みちぎって逃げてきたとか……聞いてるだけでタマがヒィッとなった。
まあ、常識では考えられないことなんてこの世にいくらでもあるし、そもそも結衣ちゃんだって俺に理解してもらおうとは思ってないだろう。
「あの、すみませんでした、迷惑かけて」
食事を終えて、結衣ちゃんがぽつりと言った。
「あたし帰ります……でも、その前に、その、本……読んでもいいですか?」
そう言って結衣ちゃんが指したのは、棚の上に置きっぱなしだった、文庫版の『銀河鉄道の夜』だった。
以前、結衣ちゃんから話を聞いたとき、懐かしくなって買ってみたやつだ。
「ああ、いいよ。はい」
ベッドに腰掛けた結衣ちゃんに、ひょいと文庫を手渡す。
結衣ちゃんはパラパラとページをめくると、いきなり声に出して読み始めたのでびっくりした。
「あ、すいません……つい」
恥ずかしそうに言ったあと、結衣ちゃんはしばらく無言でページを進めていたけど、我慢できないという感じで言った。
「すいません……あの、朗読してもいいですか?」
俺は頷いた。
「いいよ、聞かせてよ」
結衣ちゃんはすっと息を吸うと、物語を読みはじめた。
狭い部屋の中に星空の物語が広がる。
結衣ちゃんの声は決して大きくないけど、よく響く心地よい声だった。
「僕たち、一緒に行こうね」
そう言ってジョバンニが振り返ると、隣にいたはずのカムパネルラの姿は消えていた。
銀河の旅は突然終わりを告げて、地上へ戻されたジョバンニを待っていたのは、カムパネルラとの永遠の別れだった。
最後の一節まで読み切ったあと、鼻をすするような音が聞こえた。
見ると、結衣ちゃんは本を両手で開いたまま、ぼたぼたと涙を流していた。
理由なんてない……ただ、そうするのが自然だと思っただけだ。
俺は結衣ちゃんをきつく抱きしめていた。




