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第2話 銀河鉄道とメイプルシロップ

『探しています。心あたりのある方は、どんな些細な情報でもいいのでご連絡ください』


 ポスターの中では派手な化粧をした若い女の人が笑顔でピースサインをしている。


 この捜索ポスターは、あたしが図書館に入り浸るようになってからずっと貼ってある。

何か事件に巻き込まれたのだろうか……それとも、こんなに明るそうな人でも世の中から逃げ出したくなることがあるんだろうか。


 今日は図書館が休みなのでロビーは閑散としている。

ソファは空いているけど、なんとなく落ち着かなくてあたしはさっきからロビーをうろうろしていた。


 閉まっている図書館のガラス戸に自分の姿を写してみる。

知らない間にずいぶん髪が伸びた……肩につきそうだし、結んだほうがよかったのかもしれない。

どんな服装で来たらいいのか、仕事なんだしちゃんとした服を着たほうがいいのか、いろいろ悩んだけど、結局普段と同じTシャツとゆるめのカーゴパンツにした。


 もうすぐ約束の時間になる。


 こんな風に大人の人と待ち合わせをするなんてはじめてだ。

緊張してドキドキしてきた。

それに……正直、みゆきさんの顔をはっきりと覚えているわけではなかった。

本人を前にしてもわからなかったらどうしよう。


 緊張が不安に変わってきたとき、ロビーの自動ドアが開いた。





「引き受けてくれてありがとう。電話、もらえて嬉しかったわ」


 あたしの姿をみとめると、みゆきさんは柔らかい笑顔で言った。


「本日はよろしくお願いします!」


 あたしは練習した通りに頭を下げた。

場違いなくらい大きい声がロビーに響いて、少し恥ずかしくなった。


「こちらこそよろしく。じゃあ、行きましょうか」


 みゆきさんは落ち着いた声で言った。


 市民ホールを出ると、初夏の日差しが飛び込んできた。


「緊張してる?」


 大通りの坂を登りながらみゆきさんが話しかけてくれる。

あたしが頷くとみゆきさんは面白そうに笑った。


「そんなに硬くならなくても大丈夫よ。ちょっと気難しいところはあるけど、悪いひとじゃないから」


 図書館から大通り沿いに10分ほど歩いて、住宅街の入り組んだ路地を入ったところにその家はあった。


 コンクリートブロックの塀に囲まれて、入り口には和風の質素な門がある。

平屋建ての小さな日本家屋といった佇まいで、両引きの玄関ドアの横に植えてある木には柑橘系の実がたくさんなっていた。


 うちから歩いて30分もないところに、こんな家があったんだ……全然知らなかった。


「ただいま帰りました」


 みゆきさんは家に入ると玄関で靴を揃えた。


「お邪魔します」


 あたしも続いて家に入る。

同じように靴を揃えたけど、こういう時、左に並べたらいいのか右に寄せたほうがいいのか作法がよくわからない。


 玄関を上がったところの棚にはさっきの柑橘だろうか、濃い緑色の葉と白い花をつけた枝がガラス製の花瓶に挿してあった。

板張りの廊下は建物を囲むように巡らされていて、ガラス戸からは初夏の日差しが差し込む広々とした庭が見えた。


 通されたのはふすまが開け放された畳敷の居間だった。

押入れから赤色の座布団を出してあたしに座るよう促すと、みゆきさんはコーヒーを淹れに台所へ立った。


「牛乳と砂糖は入れる?」


「お願いします」


 しばらくしてみゆきさんはマグカップを2客もって居間に戻ってきた。

青色の紫陽花の絵が描かれた陶器のマグカップがちゃぶ台の上に置かれた。


「いただきます」


 コーヒーをひと口飲んでびっくりした。

そんなに甘くないのに、香ばしくて牛乳の濃厚なコクがあってすごく美味しかった。


「すごい……こんなに美味しいコーヒーはじめて飲んだ」


 思ったことをそのまま言ったらみゆきさんは嬉しそうに笑った。


「気に入ってもらえてよかった。お砂糖の量も大丈夫だった?」


 あたしは頷いてコーヒーをまたひと口飲む。

本当に、まるで魔法でもかかってるみたいに美味しい。


 今までコーヒーっていったら朝の眠気覚ましか試験勉強のお供か……とにかくコーヒーをこんなに味わって飲んだことなんてなかった。

カップに残った冷めたコーヒーなんて当然のように捨てていた。


 こんなふうに、最後のひと口まで大事に飲みたくなるコーヒーがあるなんて知らなかった。


「じゃあ、ちょっと待っててね」


 みゆきさんはふすまを開けて隣の部屋に入っていった。

ふすまの奥に暗がりが見えて少しぎょっとする。


 そうだ、あたしはここにコーヒーを飲みにきたわけじゃない。

緊張するというか、何か得体の知れないものがこの家の奥に潜んでるような気がして少し恐ろしくなってきた。


 みゆきさんは優しそうな人だけど、その、肝心のおじいさんはどんな人なんだろう。

気難しいと言っていたけど、うまくやっていくことができるんだろうか。


 不安を紛らわすように庭を眺めていたら、物音がしてみゆきさんが戻ってきた。

あたしは反射的に背すじを伸ばす。


「お待たせ。そこを入った先は書斎になってるんだけど、その先の部屋に新井(あらい)がいるから、あとは新井の言うとおりにしてもらえばいいから」


「はい!」


 あたしはそろりと立ち上がると、半開きになったふすまから奥の部屋へ入った。





 入った先は板の間だった。

壁際には背の高い本棚が所狭しと並んでいて、外の光は入らない。

居間から続くふすまを閉じてしまえば、もう部屋の中は真っ暗だ。


 部屋の奥、さらにふすまで隔てられた先に、新井さんがいる。

にわかに、胸がはりさけそうなくらいドキドキしてきた。

あたしは暗がりの中をゆっくり歩いて、おそるおそるふすまに手をかけた。


 開いた先の光景に、あたしは息をのんだ。


 薄暗い室内をガラス製のランプシェードの灯りが青白く照らしている。

手前には小さな机とアンティーク調のソファ、そして、部屋の奥……まるで深い森の中か、海の底のように現実感のないこの空間で、彼、新井さんはベッドから半身を起こしてじっとこちらを見ていた。


「あ……あの」


 雰囲気にのまれて言葉がうまく出てこない。

だめだ、仕事で来てるんだからしっかりしないと。


「小山結衣といいます。よろしくお願いします」


 おじぎをして、再び頭をあげても新井さんは何も言わず、まるで置き物のようにあたしを見ている。


 なんなんだ一体……居心地の悪さが全身を包んで、この場から逃げてしまいたくなる。

ここで、新井さんの指示を聞けと言われていたのに。


「あの……」


 少し、声が震えてしまった。


「あたしは何をしたらいいでしょうか」


 やっとの思いでそれだけ言った。


 新井さんはゆっくりまばたきをしてから重そうに口を開いた。


「本……」


 新井さんが声を発すると、止まっていた空気が重く震えた。


「本を持ってこい」


 低くてよく通る声だった。


 本……さっきの部屋から持ってきたらいいのかな。


「あの、何の本を持ってくればいいですか?」


「お前が選べ」


 ええ? 声が出そうになるのをすんでのところでこらえる。

そもそもどんな本があるのかわからないし、そんな「センスで」みたいに言われても困る。


「はい」


 あたしは内心の動揺をかくすように本棚の部屋へ戻った。


 胸に手を当てて、はあーっと大きく息を吐く。


 もうすでにここに来たことを後悔し始めていた。

こういうとき、どんな本を選んだらいいのか、物語なのか評論なのか随筆なのか、短いものがいいのか長いのがいいのか、そもそもここに並んでいる本の内容なんて全然わからない。


 どうしよう、あまり待たせるわけにもいかないし……途方に暮れたとき、ひとつの背表紙が目に止まった。


『銀河鉄道の夜』


 読んだことはないけど、有名な作品なのは知っている。


 目を引かれたのは、中学校の合唱コンクールで似たようなタイトルの歌を歌ったことを思い出したからだ。

この本と関係があるかはわからないけど、どこかもの悲しいような旋律がやけに耳に残る曲だった。


 普段は授業もあまり真面目に聞かない、制服を着崩して気だるげな雰囲気だった女の子が、ピアノを弾くときだけはとても真剣な表情になったことを急に思い出した。

もう名前も覚えていないけど、彼女は元気だろうか。

今でもピアノを弾いているのだろうか。


 あたしは本棚から『銀河鉄道の夜』をそっと抜くと奥の部屋へ向かった。





「持ってきました」


 あたしが本を両手で掲げてみせると、新井さんはゆっくり頷いた。


「座れ」


 言われるままに、あたしはソファに座る。

柔らかく沈み込むようなソファの上で本を開くと、ちょうど青い光が本の上に落ちてくる。

まるでここだけ現実世界から切り離されて、時間が止まっているような気分になる。


「それじゃあ、頼む」


 あたしは小さく頷くと、口を開いた。





 学校で順番に教科書を読み上げる時間は嫌いだった。


 声が変になってないか、漢字の読み方を間違えないか、まわりがあたしを笑っているんじゃないか、気になって仕方なくて、早く自分の番が終わってほしかった。

だから、人前で本を読むなんて、あたしにできるのか不安だった。


 でも、ここは学校とは全然違った。


 あたしの声が部屋の中で響いて、優しく耳に帰ってくる。

なめらかで、それでいて豪奢な文章は流れるように口から出てきて、いつまでも読んでいたいくらい心地がいい。


 ほかの音が消えてしまったようなこの部屋で、あたしは引き込まれるように物語を読み上げていた。


「そこまででいい」


 区切りでもないところで急に新井さんが言った。


「ええ!」


 つい声をあげてしまった。

だって物語は始まったばかりだ。

銀河鉄道なんて、まだ出てくる気配すらないのに。


「なにか、悪いところがありましたか?」


 おそるおそる顔をあげると新井さんと目があった。

さっきまでとうって変わって、射るように鋭い目をしていて、思わず身がすくむ。


「いや、いい声だった」


 新井さんは鋭い目のまま、にやりと笑った。


「また来いよ」


 なんだろう、その言葉を聞いた瞬間、かすかに胸がざわっとして、急に落ち着かなくなった。

まるで、心を直接撫でていくような、鋭くて、それでいて甘い声だった。


 しばらくぼーっとしていたけど、我にかえって立ち上がると軽く頭を下げてあたしは部屋を出た。





 明るい居間に戻ると、急に現実世界に戻った気がした。

さっきまでの出来事がまるで夢だったみたいだ。


「お疲れ様、どうだった?」


 台所からみゆきさんが声をかけてくれた。


「あの、また来いって、言われましたけど」


 その場で立ったまま言うとみゆきさんは笑った。


「それはよかった。そうそう、ホットケーキ焼いたら食べる?」


「食べます」


 あたしは即答した。





 ホットケーキはふわふわなのにきめが細かくて、ほんのり牛乳の香りがした。

蜂蜜の甘さにバターのなめらかな塩気が混じりあっていくらでも食べられそうだ。


「ありがとうね、これ、今日の分」


 夢中でホットケーキを食べているあたしの隣に封筒が置かれた。

中を見ると折り目のついていないきれいな千円札が4枚入っていた。


「ありがとうございます」


 何かの対価としてお金をもらったのなんて初めてだった。

嬉しくて胸がじわりと温かくなる。

あたしは封筒を大事にかばんにしまった。


「それで、どうだった? また来てもらえるかな?」


 みゆきさんはコーヒーを飲みながら言った。


「はい、是非」


 あたしが答えるとみゆきさんは笑った。


「よかった。じゃあ、あしたからもよろしくね」


「はい、でも……」


 あたしは少し言いよどむ。

続けることに不満があるわけじゃない。

新井さんは少し怖い気もするけど、朗読は楽しかったし、物語の続きだって気になる。


「あの、今日は全然、ちょっとしか読んでないし、本当にこんなんでよかったのかなって」


 本を読んでいた時間なんて、20分もなかったように感じる。

ここでコーヒーを飲んだり、おやつを食べてるほうが長いくらいだ。

たったあれだけの時間に、本当に4千円の価値があるんだろうか。


「ああ、そんなこと」


 みゆきさんは笑顔で言った。


「新井は気分屋だから……新井がいいって言うならいいのよ。それに、また来いって言われたんでしょ? 結衣のこと気に入ったんじゃないかな」


 不意に名前を呼ばれてどきっとした。

それに、新井さんは何を考えてるのかいまいちよくわからなかったけど、あたしのことを気に入ってもらえたんだと思うとくすぐったいような、嬉しい気持ちになる。


「それでも気になるんなら……次からはあたしの仕事も少し手伝ってもらおうかな」


 みゆきさんの仕事って何なんだろう。

とりあえずあたしは頷く。


 そのとき、ふすまがすーっと開いた。


「おい」


 出てきたのは新井さんだった。

あの部屋では暗くてよくわからなかったけど、藍色の涼しそうな甚平を着ている。

意外と背が高くて肩幅が広い。


「ちょっと新井! 急にどうしたんですか?」


 みゆきさんが少し慌てたように立ち上がる。


「うまそうな匂いだな。俺も食べるぞ、ホットケーキ」


 そう言って新井さんは座布団の上にどかっと腰を下ろした。


「ああもう、これは結衣のために焼いたんですよ。とにかくちょっと待っててください」


 みゆきさんはバタバタと台所へ向かった。


「蜂蜜じゃなくてメイプルシロップな!」


 明るい部屋で見た新井さんは、どこからどう見てもふつうのおじいちゃんだ。

さっき一瞬でもどぎまぎしてしまったのは、いったいなんだったんだ。

あたしは何を言ったらいいのかわからなくて黙ってコーヒーを飲んでいた。


 やっぱり、すごく美味しいコーヒーだった。





 帰ると家には誰もいなかった。

お母さんはパートで、お姉ちゃんは大学だろうか。


 あたしは玄関で靴を揃えると自分の部屋へ上がった。


 明かりをつけて部屋着のTシャツとハーフパンツに着替えると、無秩序にものが散乱した机が目に入る。


 ゴミ袋を広げて大学のパンフレットと願書、模試の成績表を手当たり次第に放り込む。

参考書と赤本を紐でしばってクローゼットに入れて、図書館で借りたけど結局読まなかった本をかばんに入れたら、やっと机の地肌が見えてきた。


 机を拭いてベッドカバーを交換して、部屋の隅に積んであった洗濯物と一緒に1階に持って下りて脱衣室の洗濯カゴに放り込んだら、今度は掃除機を持って上がって部屋の隅々まで掃除機をかける。


『また来いよ』


 ふと新井さんの言葉を思い出す。

あのとき、あたしの中に生まれたざわめきは何だったんだろう。


 窓を開け放つと、夕方の涼しい風が部屋の中に吹き込んできた。

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