第18話 シートベルトと酔い止め薬
「なんで、あたしはダメなのに、結衣なら良いわけ?」
脱衣室を出ようとしたら、お姉ちゃんの激しい剣幕の声が聞こえてきた。
「ほら、めぐみの時とは事情が違うじゃない」
宥めるように話すのはお母さんの声だ。
「何が違うのよ……学校に行くのが嫌、受験をするのが嫌って、繊細なのか何なのか知らないけど、誰だって生きてたら嫌なことなんてあるじゃん! その中でどうにか歯食いしばってやってるんだよ! あんなの、甘えてるだけじゃん」
あたしは脱衣室から出られなくて、息をひそめていた。
知らなかった……お姉ちゃんからは、そんなふうに思われていたのか。
「そうじゃなくて……結衣はお友達と旅行に行くって言ってるんだから、めぐみとは違うでしょう」
旅行……? 旅行が何か関係してるの?
「友達なわけないじゃん! 男だよ男! 本当に……結衣には甘いんだから」
会話はそこで終わったらしい。
お姉ちゃんが乱暴に階段を登っていく音が聞こえてきた。
あたしは出るタイミングを完全に逃して、鏡を見ながらぼう然としていた。
◇
空のボストンバックを前に、持ち物を確認していく。
2泊3日だから、着替えは2組と、下着は予備も入れて3組あればいいか。
なんとなく浮かれて、安物だけど下着は新しいものを買い揃えた。
出先でお風呂に入ると言っていたし、タオルとせっけんも持っていく。
あとはミネラルウォーターとお菓子……ももちゃんが好きなバームロールもちゃんと用意している。
ふとクローゼットを見ると、紐でしばられた参考書が見えた。
結局、捨てられなかった……いつかこんな日が来ることを心のどこかで予感していたのかもしれない。
なんか誤解されてたし、お姉ちゃんはいろいろ思うところがあるみたいだけど、帰ってきたら気合いを入れ直して勉強しないといけない。
だから、この旅行だけは全力で楽しもう。
ふと思いついて机の引き出しを開ける。
ミントブルーの小箱から青色の蝶を出して、そっと髪に飾った。
一緒に行こう。
心に羽が生えたみたいに、軽い足どりで階段を下る。
リビングのお母さんに「行ってきます」と声をかけると、あたしは玄関を出た。
◇
駅前のロータリーでバスを降りると、ひんやりと夜風が肌を撫でた。
「結衣、こっちだ」
ロータリーの端、百貨店の入口の辺りでヒカルさんが声をかけてくれた。
車道に黒い車が停めてある。
おそらくヒカルさんの車なんだろう。
「ヒカルさん!」
こんなに遅い時間にヒカルさんと会うのは初めてで、なんだか少しドキドキする。
時刻はもうすぐ10時で、百貨店はもう閉まっている。
「今日は車出してくれてありがとう」
あたしが言うとヒカルさんはふっと笑った。
「いいよ。ももかは今コンビニ行っててすぐ来るから」
話しているうちにももちゃんが来た。
「あ、結衣来たんだ。じゃあ行こう」
促されるまま車に乗り込むと、運転席に男の人が座っていて驚いた。
「え、えっと……こんにちは」
動転して思わず変なことを口走ると、彼は面白そうに笑った。
「はじめまして、ユウトです」
「あ、はじめまして、結衣です」
状況がつかめないまま、あたしも自己紹介をする。
「ユウトは俺の友達。今日は運転の交代要員で来てもらったんだ」
ヒカルさんが助手席に乗り込んで言った。
「だって、ひとりで3日ぶっ通しの運転はさすがに疲れるべ」
シートベルトをしながらももちゃんが笑った。
もしかしたら、車を運転する人の間では当たり前のことなのかもしれない。
あたしはやっぱり世間知らずなんだな。
「よろしくお願いします」
あたしが頭を下げると、ユウトさんは「出発進行!」と楽しそうに言って、車を発進させた。
◇
「結衣、車酔いとか大丈夫?」
走りはじめてしばらくしたとき、ももちゃんが言った。
「あたし酔い止め持ってきたからさ、結衣も飲んでおいたら?」
「水なしで飲めるやつ」と言いながらカバンから酔い止め薬の箱を取り出す。
「あ、大丈夫」
言った瞬間、車内の空気が一瞬緊張した気がした。
ももちゃんは驚いたように軽く目を見開く。
「えっと……あたし、いつも飲んでるやつがあって、今日もそれ飲んできたから」
なんとなく気まずくてあたしは小さい声で言う。
なんだろう……変な空気だ。
「そう……」
ももちゃんは無表情で箱をカバンにしまう。
「じゃあ、大丈夫だったね」
ももちゃんは静かに言うとぎこちなく笑った。
車内に無言の時間が流れる。
「ユウト、ちょっとコンビニ寄って」
ヒカルさんが沈黙を破った。
「なんか飲み物欲しいわ」
「おう」
車は2つ信号を越えた先のコンビニで止まった。
ヒカルさんとももちゃんに続いて車を降りようとしたら、「ひとりで留守番は寂しいから付き合ってよ」とユウトさんに言われて、あたしは車内に残った。
「いきなり知らんやついたから、びっくりしたでしょ」
ユウトさんは笑いながら言った。
「いえ、そんなことは……」
あたしはあいまいに言葉を濁す。
「ヒカルがさ、結衣ちゃんのこと可愛い可愛いって言うから、会えるの楽しみにしてたんだ」
「ええ、そうなんですか」
ヒカルさんがそんなことを……思わずにやけそうになる。
「うん、確かに結衣ちゃん、めっちゃ可愛いわ」
ユウトさんは振り返ると楽しそうに笑った。
「え、ええ……あの、ありがとうございます」
なんかよくわからないけど、すごくいい人だ。
そのとき、ももちゃん達が戻ってきた。
「ジュース買ってきたよ」
ももちゃんはガサガサ袋を探りながら「オレンジジュースとね、カルピス」と言った。
「結衣、どっちがいい?」
言われた瞬間、ざらっと背中に違和感がはしる。
なんだろう、今日は……いや、この間から、ももちゃんの様子は、なんだか、変だ。
おそるおそる横を向いて、あたしは固まった。
ももちゃんは、口は笑っていたけど、今にも泣き出しそうなほど張りつめた目をしていた。
ボトルキャップを目をこらして見る。
2本とも、キャップとリングの間に小さな隙間が見えた。
「ねえ、どっち?」
ももちゃんの声は震えていた。
車はもう走りだしている。
一体、何が起こっている?
急に増えた運転手、車が動き出してから寄ったコンビニ、そして、すでに開封されているペットボトル。
よくわからないけど、今、あたしはとてもまずい状況にいるんじゃないのか。
ヒカルさんもユウトさんも、後部座席の様子をじっと窺っている。
どうしよう……どうすればいい。
「ねえ、結衣」
ももちゃんの声は、まるで懇願しているみたいだ。
どくん、と心臓が鳴る。
あたしはぐっと奥歯を噛みしめると、オレンジジュースのボトルに手を伸ばした。
飲めば、いいのね?
確かめるように琥珀色の目を見て、ゆっくりまばたきをすると、あたしはキャップを開けてオレンジジュースを一気に飲んだ。
ふぅーっと息を吐いて、中身が半分以上減ったボトルに蓋をしようとした瞬間だった。
全身から力が抜けた。




