第15話 浪人生とサウザンクロス
この部屋はずっと静かだ。
あたしの迷いも、変化も、決意も、まるで電車の窓から見える知らない景色みたいに現実感がなくなる。
この静かな部屋でずっと、いつまでも物語の世界に浸っていたい……そう思うこともあるけど、残されたページの厚みは終着駅が近いことを告げていた。
空いっぱいの渡り鳥を見て、一面のとうもろこしの畑を越えて、野原に光る大きな赤い火を過ぎると、十字の大きな光がかがやくサウザンクロスに到着した。
讃美歌が響く中、ほとんどの乗客は十字の光のもとに降りていってしまった。
汽車が動きだして、遠くなる十字を見ながらジョバンニはカムパネルラへと言う。
「僕たち、どこまでも一緒に行こう」
「よし、そこまで」
新井さんの声が響く。
出会った日から変わらない、あたしの中にするりと流れこんで、中心から甘く震わせるような不思議な声。
この声も、しばらく聞けなくなるのかもしれないな。
「新井さん」
あたしは本を置くと新井さんを見つめた。
「おう、なんだ?」
青い光の中、新井さんは鋭く光る目であたしを見る。
「聞いていただきたいことがあるんです」
◇
ふすまを開けると、居間ではみゆきさんとももちゃん、ヒカルさんが座っていた。
「結衣、どうする? ももちゃん達に聞かれてもいい?」
あたしは頷いた。むしろ、聞いてもらった方がいいだろう。
「結衣、話ってなんだ?」
のっそりと、部屋の奥から新井さんが出てきた。
◇
「あの、あたし……大学に行きたいんです」
みんなの視線が集まる中、あたしは畳の上に正座して言った。
横で聞いていたももちゃんが目を大きく開いたのがわかった。
「それは……北十字を抜けるってこと?」
みゆきさんが固い表情で言う。
「いえ、違うんです。あの……考えたんですけど、大学で勉強……その、経済学とか、法学とか、ああ、あと農学とか、知識をつけたら、北十字の役に立てるんじゃないのかって」
言ってるうちにだんだん自信がなくなってくる。
「思ったん……ですけど」
あたしはちゃぶ台に刻まれた年輪を見る。
もし、メンバーごとに仕事内容が割り振られてるんだとしたら……あたしはすごく自分勝手なことを言っているのかもしれない。
「あの、ダメでしょうか?」
あたしはおずおずと顔をあげる。
ももちゃんも、ヒカルさんも、新井さんまで、みんな緊張した顔でみゆきさんを見ていた。
みゆきさんはしばらく難しい顔をしていたけど、突然ふっと吹き出した。
「やだ、そんなにかしこまって……何を言うかと思えばそんなこと」
みゆきさんは優しく微笑んで言った。
「いいじゃない、活動はしばらくお休みしていいから……存分に勉強してらっしゃい」
その言葉を聞いて頬が熱くなった。
「ありがとうございます」
あたしが頭を下げるとみゆきさんはすっと立ち上がった。
「じゃあ、お夕飯の前だけど、すいか食べましょうか」
すいかは甘くてみずみずしくて、すごく美味しかった。
「しばらく結衣は来れなくなっちゃうのか、寂しくなるわね」
スプーンですいかの種をこそげながらみゆきさんが言った。
「でも、今読んでる本が終わるまでは来るつもりです。それから、たまにみゆきさんのごはん、食べにきてもいいですか?」
あたしが言うとみゆきさんは嬉しそうに笑った。
「もちろんよ、いつでも来てちょうだい」
ああ、緊張したけど、言ってみてよかった。
でもこれからはしっかり勉強しないと……いや、まずは志望学部から絞り込まないと。
ずいぶんブランクができてしまったし、条件は運動部を引退した現役生と同じだ。
「そうだ、あなた達、3人で旅行でも行ってきたら?」
みゆきさんが何気なく言った。
ぴく、と一瞬ももちゃんが眉根を寄せた。
「旅行?」
あたしは思わずつぶやく。
「うん、せっかく仲良くなったんだし、どこかに行ってきたらいいじゃない。ヒカルくんに車出してもらって」
みゆきさんの視線を受けてヒカルさんが笑顔で親指を立てる。
「可愛い結衣のためだ。どこでも好きなとこ連れてってやるよ」
夢じゃないんだろうか、あたしは目をパチパチさせる。
ヒカルさんと、ももちゃんと、みんなで旅行……そんなの、楽しいに決まってる。
「でも、迷惑じゃないかな」
「バカ言うでねえ」
ももちゃんがあたしの声にかぶせるように言った。
「絶対絶対楽しいって! 結衣、どこ行きたい?」
ももちゃんも、あたしと一緒に出かけたいと思ってくれてるんだ。
なんだか感動して涙が出そうになる。
「ええ、ちょっと……考える」
◇
結局、飛騨の山まで北十字の拠点にする予定の建物を見にいくことになった。
「風呂と飯はちゃんとしたとこに行くけど、寝るところは期待するなよ。基本車内、よくてカプセルホテルと思っといてくれ」
ヒカルさんの言葉を思い出す。
ヒカルさんの仕事の都合で出発は夜になるらしくて、それもなんだかワクワクした。
「露天風呂は絶対入ろうね。あとご当地ソフトクリームも食べよう」
バス停までの道を歩きながらももちゃんがはしゃいだ声で言った。
「ももちゃんは露天風呂が好きなんだね」
あたしはぎゅっとつないだ手を握りしめる。
「うん、星をみながらお風呂に浸かれるのって、すごくしあわせな気分になれるんだ」
ももちゃんは夜空を見上げながら言った。
「旅行、すっごい楽しみ」
いつも通り手をつないで歩いて、あたしとももちゃんはバス停の前で別れた。
生ぬるい風のなかに、ふと秋の香りがする。
気のせいだろうか。
今日、ももちゃんと一度も目が合わなかった。




