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第14話 最高学府とコントレックス

 髪の毛……伸びたな。


 机に置いた鏡を見ながら髪をひと房ずつとってコテをすべらせていく。

もうすっかりロングヘアだ。

これまで毛先に動きをつけるだけだったけど、もう少しいろいろ遊んでみてもいいかもしれない。


 急にガチャッと後ろでドアが開いてコテを落としそうになる。


「ああ、そのままでいいから聞いて」


 わかってたけど、入ってきたのはお姉ちゃんだった。

そのままでいいから、じゃないんだよ……この前ノックをしろと言ったばかりなのに、聞いてたんだろうか。


「あんたにも一応言っておこうと思って」


 ぎくっと体が緊張する。

もしかして……『仕事』のことについて何か言われるのかもしれない。


「あたし、誠と別れたから」


 コテを持つ手が滑って首に触れた。


「熱っ!」


「それだけ、じゃあね」


「ちょっ……ちょっと待って!」


 椅子ごと後ろを向いて、ドアを閉めようとするお姉ちゃんを呼び止める。


「なに?」


 ダルそうにお姉ちゃんは振り返った。


「えっと……その、何で?」


 だって、うちに来たときは……仲が良さそうというか、誠さんは愛しさがぎゅっと詰まったような目でお姉ちゃんを見ていた。


 お姉ちゃんは少し黙り込んでから、低い声で言った。


「好きなひとができたの、あたしに」


 言葉が出なかった。

お姉ちゃんは逃げるように目を伏せる。


「誠はさ、あたしのこと好きって……大好きって言ってくれて、家にも挨拶とかちゃんと来てくれて、あたしのこと、すっごい大事にしてくれたのに……傷つけちゃった」


 やりきれなさそうにお姉ちゃんが顔を上げると、コテを握りしめたままのあたしと目が合った。


「まあ、あんたにこんな話してもわかんないか」


 そう言い残してお姉ちゃんは部屋を出ていった。





 髪にかからないよう気をつけながらシャワーで体を流す。


 この前買った無香料のボディソープで全身をくまなく洗う。

殺菌効果のせいか、工業的というか、薬品っぽい匂いがする。

普通のボディソープは香料でこの匂いをごまかしているんだろうか。


 シャワーブース全体を水で流して、床を洗ったら排水溝のゴミを捨ててタオルで壁についた水滴を拭く。


 朝、コテで火傷したところがヒリヒリする。


『誠と別れたから』


 あの2人が別れるとは思わなかった。

普通に結婚とかして、順当に『しあわせ』になるものだと思っていた。


 体を拭いたあと、腕に鼻を近づけて匂いをかいでみる。

大丈夫、匂いは残ってない……と思いたい。


 ベッドカバーを交換したら粘着ローラーで床を掃除していく。


 お姉ちゃんと誠さんのことを聞いたとき、心のどこかに喜んでる自分がいた。


 あの感情はどこから来たんだろう。


 ここのところ、あたしに対しての当たりが妙にキツイお姉ちゃんが沈んでるのを見て愉快だったんだろうか。


 それとも……ぎゅっと胸が苦しくなる。


 あたしは、誠さんが『お姉ちゃんの彼氏』でなくなったことが嬉しいんだろうか。


 しゃがみこんだまま、はぁーっとため息をつく。


 バカだ……本当に馬鹿馬鹿しい。


 確かなのは、これであたしと誠さんの間には、なんのつながりもなくなったってことだけだ。


 洗濯物とゴミ袋を持ったら、外に誰もいないことを確認して部屋を出た。





「おつかれー」


 バックヤードに下がるとユキさんがいた。


「お疲れ様です」


 あたしが軽く頭を下げると、ユキさんは外国語のラベルが貼ってあるミネラルウォーターのペットボトルをあたしに差し出した。


「あげる」


「ありがとうございます」


 まさかお客さまからもらったやつじゃないだろうな……キャップを凝視してると、ユキさんが淡々と言った。


「あたし、今日で辞めるから」


「えっ!」


 驚いて顔をあげたあと、あたしはおずおずと頭を下げた。


「今までお世話になりました」


「いや別に何もしてないけど……」


 ユキさんはそう言ってカバンからミネラルウォーターを取り出してグッと飲んだ。

ああ、ユキさんの私物だったのか……あたしも安心してボトルのキャップを開ける。


「あたしさ、大学行くんだ」


 ペットボトルを離して軽く口を拭いながらユキさんが言った。


「大学……」


 心の底に沈んでた思いが、わずかに震えた気がした。

まただ……この間から、背を向けたはずの世界があたしの横を通り過ぎていく。


「そう、学費貯めてたの」


 美味しそうに水を飲み干してユキさんが言った。


「奨学金なんて結局借金だからね。卒業してから苦労して返すよりは、若くて稼げるうちに稼いで、きっちり最初に払った方がいいでしょ」


「稼げるうち?」


 ちょっと引っかかったので聞いてみる。


「え……そこ?」


 ユキさんが呆れたように言った。


「こんな仕事、無条件でチヤホヤされるのなんて若いうちだけだし、ババアになったら絶対もっとキツイことやらされるようになるよ」


「マジか……」


 ぼう然とつぶやくあたしを見てユキさんは小さくため息をつく。


「この間も思ったけどさ……そんなに世間知らずで大丈夫? 話戻すけど、だから若くなくなっても稼げるように手に職付けたくて、栄養系の大学行って、管理栄養士になるつもり」


 すごい、ちゃんとしてるんだな。

あたしといくらも変わらなそうなのに……いや、年上だと思ってたけど、もしかしたら同い年かもしれない。


「アイちゃんは、なんかそういう目標とかないの?」


 一応聞いておくといった風情でユキさんが言った。

目標ならある、『理想社会』のために革命を起こすことだ。


「その……事業をしようと思ってるんだけど」


「事業?」


 途端にユキさんは胡散臭そうな顔になる。


「うん、そういうのって、何の大学に行けばいいのかな」


 ユキさんは「ええ……」と面倒くさそうに言ったあと口をひらいた。


「やっぱり、経済とか経営とか学んだらいいんじゃない? それか……法律知っといて悪いことはないと思うから法学とか?」


 ユキさんの言葉をあたしはみじろぎもせずに聞いていた。

なんだろう……自分のなかで、バラバラだったものがもう少しでつながりそうな、ずっと近くにあったのに見えなかった答えにたどり着けそうな、なんとも歯がゆい感覚がある。


「まあ、そういうことだから……道で会っても話しかけないでね」


 ユキさんはペットボトルをゴミ箱に放り込むとバックヤードを出ていった。


 あたしは蓋が開いたままのミネラルウォーターをしばらく眺めていた。





 この時間帯のバスはいつも空いている。


 みんな、どこに行くんだろう。

仕事や学校に行くんだろうか、家に帰るんだろうか、それとも、大好きな人に会いに行くんだろうか。


 何か……わかりそうだった。


 いままでわからなくて、見えなくてもどかしかったものの形がつかめそうだった。


『あたしさ、大学行くんだ』


 気だるそうなユキさんの言葉を思い出す。


『そういうのって、何の大学に行けばいいのかな』


 なんであたしは、あんなことを言ったんだろう。


 街路樹が地面に濃い影を作っている。


 あのころ……透明人間だったあたしはこの街で、ずっと何かを探していた。


 学校がつまらなくて、やりたいこともなくて、このまま進んでいくのが嫌で……でも、どこに行けばいいのか、何をしたらいいのか、先がわからなくて不安だった。


 そんなあたしを見つけてくれたのがみゆきさんで、仲間にしてくれたのは新井さんだ。


『一緒に頑張ろう』


 ももちゃんは、笑顔であたしを受け入れてくれた。


 迷子だったあたしの人生に、大きな目標ができた。

『理想』のため、新井さんのためだったら、きっとあたしはなんだってできるだろう。


 仲間と目標ができて、進むべき道が開けたいま、ふいにあたしの声が聞こえてきた。


 あたし……勉強がしたいんだ。


『理想社会』を作るために、経済学でも、法学でも、それこそ農学とか栄養学でもいいし、山の中で活動するなら運転免許……場合によっては大型の免許も必要かもしれない。


 にわかに興奮して、胸がドキドキしてきた。


 学校がつまらないわけがない。

だって、あたし達には理想があって、そこに向かって進むための力を得るために行くんだ。

そう、知識は力で、その力をどうやって使うかはあたしの自由なんだ。


「あっ!」


 聞き慣れない車内アナウンスに顔をあげると、すでに停留所を2つも乗り過ごしていた。





 玄関を開けると、花瓶に生けられた鮮やかな百日紅が目に入った。

脱いだ靴を揃えて左側に寄せる。


「いらっしゃい、結衣、すいか好き?」


 居間に荷物を置いたら、台所からみゆきさんが声をかけてくれた。


「大好きです!」


「よかった。冷やしてあるから、あとで食べましょ」


 みゆきさんはふんわり笑った。


 あたしはすーっと深く息を吸う。

今、言った方がいいよな……うん、思い立ったら行動だ。


 きゅっと軽くこぶしを握る。


「あの、みゆきさん」


「なあに?」


 台所のみゆきさんが振り返った。


「朗読が終わったら、相談したいことがあるんですけど……いいですか?」


 みゆきさんは少し緊張したような顔で「わかった」と小さく頷いた。

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