第12話 せっけんの香りとタンピン三色
ミトンをして鍋のふたを持ち上げると、湯気とともに野菜と肉の煮える雑多な香りが広がる。
『カレー作りでいちばん大事なことを教えてあげる』
じゃがいもの形を崩さないようにお玉で全体をゆっくり混ぜながら、みゆきさんの言葉を思い出す。
『すべては箱の裏に書いてあるのよ』
えっと……15分煮込んだから火をとめて、ルウを割り入れればいいのか。
いったんルウを入れてしまうと、野菜と肉がかもしだしていた複雑な香りも、すべてはカレーの中に沈む。
溶けたら再び弱火で時々かき混ぜながら加熱して、とろみがついたら完成……なんだけど、ちゃんと溶けているのか、時々っていうのがどのくらいの頻度なのか、よくわからない。
とりあえずかき混ぜとけばいいか。
底をさらうように鍋の中でぐるぐるとお玉をまわす。
北十字のメンバーになってから1か月が経った。
あたしが歓楽街で素っ裸になって働いていることをお母さんは知らない……言えるわけがない。
あたしは納得して『活動』をしているし、仕事は辛くなるときもあるけど、嫌なことばかりでもない。
でも、きっとお母さんはあたしが『女の子』の仕事をしていると知ったら悲しむだろう。
なんとなく、偽物というか、あたしはあたしのフリをしながら中身は全く別のものになってしまったのを隠しているような、後ろめたさに押しつぶされそうになる。
それに、いつになるかはわからないけど、いずれあたしはお母さんの前から姿を消す。
混ぜていくうちにどろりと、スープの中に溶けたカレーと具が馴染んできた。
ピーっと、ごはんの炊きあがりを知らせる電子音が鳴った。
◇
カレーライスと一緒にブロッコリーとゆで卵のサラダを並べると、食卓がぐっと華やかになる。
中辛のカレーは肉も野菜も柔らかくて、我ながらすごく美味しかった。
「ああ美味しい、やっぱり夏はカレーがいちばんね」
満面の笑顔で嬉しそうにカレーを食べるお母さんを見ていると、ちくりと胸が痛む。
あたしはお母さんを裏切ってるんだろうか。
あたしの『理想』は、お母さんを悲しませることになるんだろうか。
「なんかね、箱に書いてある通りに作るのがいちばん美味しくできるんだって」
あたしはなんとなくお母さんの顔をまっすぐ見れなくて、冷蔵庫のあたりに目をやりながら言った。
「なにそれ、しょーもな」
お姉ちゃんはしらけたように言い捨てると、カレーにぐるっとウスターソースをかけた。
◇
嬉しいことがあった。
はじめて、リピーターのお客さまがきてくれたのだ。
以前接客した時はなんとなくかみ合わなくて、満点のサービスができたとは言いがたい人だった。
「アイちゃんって、不器用だよね。でも、一生懸命にやってるのが伝わってきて……なんだかすごく、いいなって思ったんだ」
全身がほかほか温かくなった気がした。
うまくいかないこともあるけど、あたしが頑張ってること、こうやってわかってくれる人もちゃんといるんだ。
「ありがとうございます」
あたしは深く頭を下げた。
◇
バックヤードの冷蔵庫を開ける。
中はほとんど何も入っていない、ミネラルウォーターとスポーツドリンクが隅っこに転がっているくらいだ。
「何やってんの?」
後ろから声をかけられた。
「あ、ユキさん」
振り向いたらユキさんがいた。
面接に来た日に見かけた、ミルクティー色の髪が印象的な大人っぽい人だ。
入る時間帯が近いせいか、何度かバックヤードで挨拶を交わすことはあるけど、こんなふうに話しかけられたのははじめてだ。
「お客さまから差し入れをいただいたんです。あとで食べようと思って」
あたしはスーパーの袋を見せる。
差し入れはナタデココの入ったヨーグルト味のゼリーだった。
「ふーん、ちょっと貸して」
ユキさんの意図がわからないまま袋を渡す。
ユキさんはガサガサと袋からゼリーを取り出して、蓋を触ったり全体をくるくる眺めたあと袋に戻してあたしに返した。
「はい、賞味期限も長いし、たぶん大丈夫だね」
「大丈夫って?」
あたしが聞き返すとユキさんは表情を変えずに言った。
「食べても大丈夫ってこと」
あたしは目をぱちくりさせる。
「食べちゃ、ダメなやつがあるんですか?」
ユキさんは当然と言ったように頷いた。
「お客さまの中には、こういうところで働いてる女の子には何してもいいって思ってるゲス野郎もいるからね……差し入れなんて何が入れられてるかわかんないよ」
淡々と言われてぞっとした。
さっきまで食べるのが楽しみだったゼリーも、なんだか気味が悪くなってくる。
「こういうゼリーみたいなやつは密閉できるから安全度が高いけど、でも穴とか空いてないかは確かめたほうがいいし、ケーキは大抵店で箱の開け口にシールを貼るから、貼られてないやつは危ない」
冷蔵庫の前でしゃがみこんだまま、あたしはユキさんの話を聞いていた。
「あとは、飲み物だけど」
ユキさんは冷蔵庫を開けてミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。
「絶対に、開ける前にキャップとリングの間に隙間がないか見る。きつく閉められてても、よく見たらわかるから」
ユキさんはキャップを指差しながら言った。
あたしはただ頷くしかできなかった。
「こんな仕事してるんだから、自分の身は自分で守らないと、誰も守ってくれないよ」
ユキさんはそれだけ言って冷蔵庫にペットボトルを戻すと部屋を出ていった。
ブゥーンと冷蔵庫の稼働音が響く中、お客さまの笑顔を思い出す。
『いいなって思ったんだ』
あたしはキュッと袋の口を縛ると、袋ごとゼリーをゴミ箱に捨てた。
◇
「おい、それ捨てんのかよ、もったいねえな」
ヒカルさんが驚いたように言った。
そう言われても……いらないものはいらないんだから仕方がない。
「ポン!」
すかさず新井さんが声をかける。
「ジジイ満貫あるでねえか……やべえぞ」
ももちゃんがつぶやく横で新井さんはすっと牌を切る。
「それ、ロンです」
あたしが牌を倒すと、新井さんは鋭い目であたしを見た。
あたしの手牌を見たヒカルさんが「あっぶねぇ」と小さく言った。
「八千は一本場、八千三百です」
すらすらと点数を読みあげるあたしを新井さんは暗い目で見る。
「結衣、お前……たばかったな……」
新井さんはいじけたように下を向くと、心の底から嫌そうな顔であたしに点棒を渡した。
◇
「結衣に振り込んだ時の新井さんの顔、やばかったあ」
帰り道でももちゃんが思い出したようにククッと笑った。
「ただでさえ眼光鋭いのに……にらまれたときは心臓止まるかと思ったよ」
話しながらあたしも笑う。
大相撲の熱狂が過ぎ去ったあと、あたし達の中で麻雀のムーブメントが起こっていた。
きっかけはももちゃんの「久しぶりに麻雀やりたい」という言葉だった。
あたしは麻雀を知らなかったので教えてもらいながらだったけど、やってみると面白くてすっかりハマってしまった。
「でも、結衣って頭いいんだね。役も点数計算もすぐに覚えちゃったし」
ももちゃんの言葉に苦笑する。
頭がいい、これなら良い学校に行けると、昔はしょっちゅう言われていた。
でもそれはなんの役にも立たなかった。
「そんなことないよ……みんなと遊ぶのが楽しいから、早く覚えられたんだよ」
バス停でももちゃんと別れて、足早に家へと向かう。
あたしが麻雀を覚えたことにお母さんは戸惑っていたけど、お父さんがすごく喜んでくれた。
普段あまり接点がない娘と共通の話題ができて嬉しかったのかもしれない。
「麻雀はいいぞー、そうだ、4人いるんだし家族麻雀ができるじゃないか。お前らも覚えろよ」
お父さんが上機嫌で言ったとき、お姉ちゃんは露骨に迷惑そうな顔をしていた。
◇
部屋着のゆるいワンピースに着替えたら、ドサッとベッドに横たわる。
『ポン!』
目を閉じて新井さんの声を思い出す。
『結衣、お前……』
思わず長いため息が出てしまう。
なんでだろう。
新井さんの声が聞きたくて聞きたくて聞きたくてたまらない。
ひと言でいいから聞きたくて、でも、聞いてしまったらもっともっと聞きたくなって苦しくなる。
本当に、何なんだろう。
新井さんの声にはいつまで経っても慣れることがない。
いつまでも、体の芯に甘く絡みついてあたしを狂わせていく。
『結衣』
おかしい……絶対に何かがおかしい。
なんでこんなに、新井さんの声を思い返してしまうんだろう。
なんで思い出すだけでこんなに体中が切なくなってしまうんだろう。
あの嵐の日以来……いや、はじめて会った日から、あたしはおかしくなってしまったのかもしれない。
あのとき、新井さんの手が触れた頬をそっと撫でる。
あたしは一体、新井さんに何を望んでいるんだろう。
枕を抱きしめながら天井をあおいだとき、急にガチャっとドアが開いた。
不意の出来事に驚きすぎてベッドから転げ落ちそうになる。
部屋に入ってきたのはお姉ちゃんだった。
「びっくりしたあ……ノックしてよ」
お姉ちゃんはそれには答えずにずんずんあたしのところまで来た。
「え……なに?」
ただごとじゃない雰囲気に、思わず後じさる。
ひたと背中に壁が当たった。
お姉ちゃんはにらむくらい強い目であたしを見ながら小声で言った。
「あんたさ、何やってんの? 昼間」
どきりとした。
内心の動揺を悟られないよう、声を低くして話す。
「何って、新井さんの家で本読んだり……料理教えてもらったり、いろいろ……」
「なんで爺さんに読み聞かせして、せっけんの匂いをさせて帰ってくるわけ?」
あたしの話を遮ってお姉ちゃんが言った。
ぐっと言葉につまる。
体が凍りついたみたいに冷たくなって、背筋を嫌な汗が伝う。
仕事では毎回お客さまの体を洗うし、退勤する前に全身を殺菌作用のあるボディソープで洗っている。
確かに、あたしの体からは家のせっけんと違う匂いがしているのかもしれない。
「まあ、あんたが何やってても別にいいんだけどさ……気をつけなよ、いろいろ」
お姉ちゃんは念を押すように言うと、さっさと部屋から出ていった。
まだ、心臓が鳴っている。
どうしよう……お姉ちゃんはどこまで気づいているんだろう。
壁に背中を預けたまま、あたしは枕にぎゅっと顔をうずめた。




