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第11話 フレアスカートと7月の土俵

 コテは髪を巻くためのものだと思っていた。


 150度に熱したコテを髪に滑らせる。

知らなかった……髪の表面を一度通すだけで、ツヤが全然違ってくる。


 化粧品も目がまわるくらい種類があるけど、別に全てを使わなきゃいけないわけじゃない。

ベースメイクなんて日焼け止めとパウダーで十分だし、作り込みすぎるとかえってアラが目立つ。


 コテをかけ終わったら毛先を中心にヘアミルクを馴染ませていく。


 今まで、自分を飾ることが恥ずかしかった。


 自分を見て欲しい、きれいだと思って欲しいと思っていることを周りに知られるのが恐ろしかった。


 Tシャツとカーゴパンツは、決して『楽だから』着ていたわけではなかった。

自意識にがんじがらめになって、追いつめられて、それ以外の服装ができなくなっていた。


 シフォン素材のブラウスに青色のスカートをはいて合皮のベルトをしめると『女性らしくて品のある』スタイルが完成する。





「なんか、事務員さんみたい」


 玄関を出ようとしたら、後ろからお姉ちゃんの声がして振り返る。

今日は午前中の講義がないのか、すっぴんで部屋着のままだ。


「地味っていうか、ババくさいっていうか……あんた若いんだから、もっとちゃんとオシャレしたらいいのに」


 お姉ちゃんからみると、あたしの格好は『ちゃんと』していないらしい。


「そうかな?」


 前までのあたしだったら、恥ずかしくなって、外出するのが嫌になってただろう。

でも今は違う。


 あたしはやっと気づいた。


 服もメイクも髪型も、全部道具だ。

言ってみれば周りからこう見られたい、扱われたいという記号みたいなもの。

それ以上でもそれ以下でもない。


 そう思ったら、女性らしい格好をすることに抵抗がなくなった。

それに『地味でババくさい』のはきっと『上品』の裏返しだ。


「考えとくよ、じゃあ、行ってきます」


 玄関ドアを開けると強い日差しとセミの鳴き声に包まれた。


 それにしても不思議だ。


 着飾ることの意味をやっと理解できたのに、あたしは裸になって仕事をしている。





「職業に貴賤なんてないんだよ」


 そう言われたのは、一糸まとわぬ姿でお客さまのシャツのボタンを留めているときだった。


「風俗嬢だって立派な仕事だ。アイちゃん、きみはもっと自分の仕事に自信を持っていいんだよ」


 機嫌よく話すお客さまに、あいまいに笑って小首をかしげる。


「そうかな……でも、そう言ってもらえると嬉しいな。ありがとう」


 別に悪いことは言っていない。

でも、この人は例えばあたしがノーベル賞をとった科学者とか、戦争を終わらせた英雄だったりしても、同じことを言うんだろうか。


 ボタンを上まで全部留めたら、名残惜しいといった感じで抱きついてキスをする。


「今日はありがとう。また来てね」


 ネクタイを結べたらもっと喜んでもらえるのかもしれない。

あとで支配人に教えてもらおう。





「そうそう、それであとは細いほうを引っ張って、長さを調整したら完成」


 支配人は快く練習につきあってくれた。

それにしても、きれいに結ぶのはなかなか難しい。


「もう一回やってもいいですか?」


 支配人は笑顔で頷く。


「アイちゃんはなんでも一生懸命だね。すごく、いいことだと思うよ」


 褒められて思わず口もとがほころぶ。


 支配人はよく褒めてくれるし、小さなことでも相談に乗ってくれて、アドバイスもくれる。

研修のときに気持ち悪いと思ってしまったのが申し訳ないほどいい人だ。


 きゅっと結び目を引きあげると顔の距離がぐっと近くなる。

このタイミングでキスするのもいいかもしれない。


「ほどき方も、練習していいですか?」


 支配人は「どうぞ」と言うと嬉しそうに笑った。





 あ、もうバス来てる!

あたしは小走りでバス停に急ぐ。


 間に合ってよかった……座席に座って息をつく。

これを逃したら次のバスは15分後だ。


 窓の外は歓楽街から住宅街へと変わっていく。


 70万円なんて聞いた時はびっくりしたけど、このペースなら早めに貯まりそうだ。

それに……はじめは怖くて仕方なかった仕事も、慣れてみるとけっこう面白い。


 男のひとは、ただ『抜き』に来てるわけじゃない。

裸になりに来てるんだ。

自意識か他人の目か、この社会の中でガチガチに絡まったものをほどいて、むき出しの姿をさらけ出したくて来ている。


 すべてを取り払った姿は、きっとなんの関係もない女の子くらいにしか見せることができないんだろう。

あたしは、ただそれを見て、抱きしめてあげればいい。


 窓の外を見る。

整然と並ぶ街路樹と住宅は、まるで模型みたいだ。


 この街の中で、あたしは透明人間でいることが辛かった。

あたしを見てほしい、あたしの存在を認めてほしいと切に願っていた。


 歓楽街では、お客さまはものすごく高いお金を払ってあたしに会いに来る。

でも、お客さまが求めているのは『女の子』であって、あたしではない。


 あたし自身を見ているわけではないんだ。


 いや……実際にあたしは『女の子』なんだし、『女の子の部分』だって絶対にそれはあたしなんだけど……このなんともいえない虚しさはなんだろう。


 あたしが求める……あたしが認めてほしい『あたし』というのは、一体なんなんだろう。


 市民ホール前の停留所で降りると、何かイベントでもあったのか、制服を着た中学生の集団がバスに乗り込んでいくのが見えた。





 庭では百日紅がいっぱいに花開いていた。

強い日差しを跳ね返すように真っ赤な花が風に揺れている。


「ひゃっ」


 縁側に座って庭を眺めていたら、急にひやりとしたものが頬に触れてビクッとなる。


「どうした? ぼーっとして」


 横を向くと、ビン牛乳を持ったヒカルさんがしゃがみこんでこちらを見ていた。


「びっくりしたあ」


 どうやら、さっきの感触は牛乳ビンだったみたいだ。


「ほらよ、一杯やろうぜ」


 ヒカルさんはあたしにビンを手渡すと、縁側に腰掛けて自分の分の牛乳を開けた。


「ありがとう」


 あたしも蓋を開けて牛乳を飲む。

濃厚でどこか甘いような牛乳の味が喉を通り抜けていく。


「すっごい濃い……美味しい」


 小さくつぶやくとヒカルさんは笑って頷いた。


「でもな、今は夏だろ? これが冬になったらもっと濃くなるんだ」


「え、そうなんだ。すごい、飲んでみたいな」


 これより濃いなんて、もう生クリームかチーズなんじゃないのか?


「うん、いくらでも飲ませてやるよ」


 そう言ってヒカルさんは牛乳ビンを傾けると、ふぅーっと息を吐いた。


「北十字に入ったんだってな」


 低い声で言われてドキッとする。

ヒカルさんは『活動』についてどこまで知っているんだろう。


「うん、この間誘われて」


 小さい声で答える。

なんでだろう……活動については納得しているはずなのに、歓楽街で働いてることをヒカルさんに知られたくなかった。


「ヒカルさんはメンバーなの?」


 ヒカルさんは首を振って否定した。


「いや、うちの社長は関係者だけど俺は違う。入るかどうか、まだ決めてないんだ」


「そうだったんだ」


 ヒカルさんがメンバーじゃなかったことに、寂しいような、ほっとしたような、よくわからない気持ちになる。


「今のところは、ただの運び屋だな」


 ヒカルさんはそう言って笑うとあたしに手を差し出した。


「ほら、空きビンもらってく」


「うん、ごちそうさま」


 牛乳ビンを受け取って立ち上がると、ヒカルさんはあたしを見て言った。


「大変だろうけど、がんばれよ。牛乳ならいつでも持ってきてやるから」


「うん、ありがとう」


 あたしは笑って頷いた。





 この数週間で、あたしの生活はめまぐるしく変わった。


 でも、この部屋は変わらない。

どこまでも沈み込んでいくような、静かで深い青色の世界だ。


 夜空の旅は続く。

にわかに辺りにりんごの匂いがたちこめたとき、青年に手を引かれた姉弟が乗ってきた。

ひどく疲れた様子の青年は、乗っていた船が沈没したのだと悲しそうに言った。


「よし、そこまで」


 静かな声に、あたしは本を机に置いた。


 目を閉じてため息をつく。

本当に……なんて声なんだろう。

たったひと言なのに、新井さんの声はあたしの中の弦を甘くかき鳴らしていく。


 いや、もしかしたら、あの日以来おかしくなってしまったのはあたしの体のほうなのかもしれない。


「結衣」


 新井さんはあたしをひたと見つめて言った。


「時間だ……行くぞ」


 あたしは熱に浮かされたように「はい」と小さく答えた。





 屈強な男達が円になってたくましい肌をさらしている。

何か決まった振りがあるんだろうが、絶妙に揃わない動きで両腕を動かしたあと、ゾロゾロと来た道を帰っていく。


 今日も……始まる。

あたしはぐっと息をのんだ。


「結衣、お前ちゃんと仕事しろよ……さっき部屋行ってからいくらも経ってねえだろ」


 横でヒカルさんが呆れたように言った。


「細かいことはいいじゃん。特に今場所は綱取りがかかってるから見逃せないし」


 いつのまに来ていたのか、テレビの近くを陣取っていたももちゃんが笑いながら言った。


 新井さんは大相撲が大好きだ。

朗読をしていても、土俵入りの時間が近づくと待ちきれないように打ち切ってしまう。


 こんなんでいいのかとはあたしも思うけど、それでもきっちり毎回お給料はもらっている。


 それにしても……あたしはテレビの中の土俵を見つめる。

相撲がこんなに面白いなんて知らなかった。


 ももちゃんに言わせると、ここ最近は特に盛り上がりを見せているらしい。


 モンゴルから来た最強のひとり横綱、怒留士(ドルジ)

そして誰も敵わなかった怒留士に唯一立ち向かうのは同じくモンゴル出身、今場所の綱取りを目指す期待の大関鵬隈斗(ホワイト)


 それ以外にも、国民栄誉賞も取った大横綱宇留富(ウルフ)の一番弟子、力強い張り手が持ち味の富炎率留(フェンリル)やバルカン半島出身で2メートルを超える長身から繰り出される投げ技が圧巻の琴我里亜(ことがりあ)など濃いメンツが脇を固めている。


 その中でもあたしが好きなのは360キロの巨体を持つ岩本山(いわもとやま)だ。

規格外の大きな体は迫力満点だし、出身が地元に近いせいかなんだか応援したい気持ちになる。


 今まで相撲を見ようと思ったことなんてなかったのに、みんなと一緒に見ているうちに力と力のぶつかり合いにすっかりハマってしまった。


 みんなそれぞれひいきの力士が違うから、熱狂はつきることがない。


「場所中はいつもこうなんだから……結衣まで一緒になって、いったい何をやっているのよ」


 みゆきさんがぶつぶつ言いながら居間に入ってきたのが面白くて笑ってしまった。


 土俵の上で体ひとつで戦う力士を見つめる。

昔は、裸で人前に出るなんてお相撲さんは恥ずかしくないのかと思っていた。


 恥ずかしいわけがない。


 鍛え上げられた、無駄なものが一切ない戦うための肉体……それが思いっきりぶつかり合う。

自分のすべてをかけて戦っているんだ、ひとつとして恥ずかしいものなんてない。


 土俵の上は、むき出しの肉体が放つ迫力で満ちていた。





「今日も面白かったねー」


 ももちゃんが上機嫌でぎゅうーっと手を握ってくる。


 あの嵐の日以来、あたりまえみたいに手をつなぐようになった。

柔らかい手のひらから体温が伝わってくると、なんだかすごくほのぼのした温かい気分になる。


「でも、最近全然本読んでないな……はやく続き読みたいよ」


 相撲が始まってからというもの、銀河鉄道はずっと徐行運転だ。

楽でいいとはいえ、なんだか物足りないのも事実だ。


 あたしがぼやくとももちゃんはつないだ手をぶんぶん振りながら言った。


「あのボケ老人、相撲のことになると正気じゃなくなるから……あたしのときもそうだったもん」


「ボケ老人って……」


 ももちゃんの容赦ない発言に笑ってしまう。

遠慮のない言葉につきあいの長さが垣間見える気がした。


「怒留士と鵬隈斗どっちが優勝するのかなあ……千秋楽まで目が離せないよ」


 千秋楽と聞いて少し胸がきゅっとなった。


 あたしが朗読に行っているのは週4日、土日は含まれていない。

だから、千秋楽をももちゃんと一緒に見ることはできない。


 家でひとりでテレビを見ても、きっと物足りないだろう。


「結衣」


 ももちゃんがあたしの顔を見る。


「どうしたの? 心配ごと?」


 きゅっと、つないだ手に力が入る。


「ううん、なんでもないよ」


 あたしは笑うと、強く手を握り返した。


「何かあったら言ってね。いつでも相談に乗るから」


「うん、ありがとう」


 ももちゃんがそう言ってくれるのが嬉しくて、淋しいと思ってたのがどうでもよくなる。


 千秋楽を一緒に見れなくても、こうやってたわいもない話をしながら一緒に歩いてること、それに、つないでいる手の温かさは本物だ。


 手のひらの温もりを通じて、全身が安心感で満たされていくみたいだった。

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