第10話 革命戦士アイ
バスが揺れる。
窓の外には街路樹と住宅が流れていく。
こうやって見るとうちの近所と変わらないように見えるけど、向かっているのは行ったことのないエリア……知らない街だ。
『メンバーに加わることがどういうことかわかってる?』
みゆきさんの言葉を思い出す。
活動内容を聞いたとき、戸惑いはあったけど、あたしに迷いはなかった。
バスは最寄駅とは反対方向、歓楽街へと走っていく。
すぐ隣に『そういう街』があるのは知っていた。
いままで意識したことすらなかったし、自分には関係のない、まるで海を隔てたはるか遠い世界のように思っていた。
でも、違う。
ひざの上でこぶしをぎゅっと握りしめる。
そこはあたしの街と地続きで、こうやってバスに乗れば10分かそこらで着いてしまう。
あたしだって、その街に降り立つことはできる。
『できるんだよ……女の子ならね』
ももちゃんは『女の子』の仕事をしているんだろうか。
窓の外は住宅街から商業ビルが立ち並ぶ街に変わっていく。
車内アナウンスが次の停留所を告げると、あたしは降車ボタンを押した。
◇
ご休憩、ご宿泊……特製カレー食べ放題?
入り口を隠した、派手な外観のホテルが立ち並んだ通りを抜ける。
人気のない細い道に入るとセーラー服を着た女の子とすれ違った。
平日の午前中なのに……もしかしたらテスト期間だろうか。
歩いていくと雑居ビルに着いた。
外壁のタイルはうす汚れていて、ところどころひび割れている。
真っ赤な看板に『ディセンバー』と書かれている。
ざわっと全身に緊張がはしる。
間違いない……ここだ。
道に迷った時のことを考えて余裕をもって来たけど、少し早く着きすぎたかもしれない。
看板を見上げていると、通りの反対側から女の人が歩いてきた。
ミルクティー色のふわふわの髪に、花柄の黒いワンピースを着ている。
すごい……きれいな人。
女の人はビルの前で一度立ち止まって、上から下まで、あたしの全身を値踏みするように眺めたあと、何も言わずに階段を登っていった。
どくん、と胸が鳴る。
あたし……場違いじゃないか?
いつも通りのTシャツとパンツ、髪の毛はひとつにくくっただけだ。
化粧もしてないし、そもそもやり方すらわからない。
なんだか急に自分が子どもっぽくて垢抜けないように思えてきた。
こんな格好で行っても相手にされないかもしれないし……今日は一旦出直そうか。
それでまた今度ちゃんとして来ればいい。
みゆきさんにはまた相談して……
あたしは震える手を握りしめて真っ赤な看板を見上げる。
わかっている。
戻るなんて……今さらできるわけがない。
みゆきさんに紹介してもらったし、迷惑をかけるわけにはいかない。
それに、決心したはずだ。
北十字のメンバーとして、理想社会のためになんでもやると。
今までの自分とは決別するんだって。
でも……怖い。
煙草の吸いがらがたくさん落ちている排水溝を見つめる。
若い男の人があたしの方をちらちら見ながら通りを歩いていった。
すっと、胸に手を当てる。
抵抗があるのは、縛られてるからだ。
今までの世界に……作り上げられた価値観に。
『奴隷になるな、結衣』
新井さんの言葉を思い出す。
あたしは抜け出すんだ。
今までいた場所から、透明人間だった自分から。
こんなことで怖気づいてたら、革命なんて絶対にできない。
恐れるんじゃない……飛び込め!
あたしはすーっと息を吸うと、ビルの階段を登った。
◇
3階まで上がって『ディセンバー』と書かれたドアを開ける。
飛び込んできた光景に、思わず目を見開いた。
ブルーグレーの壁紙に濃い青色のソファ、シャボン玉みたいに丸いガラスの照明が部屋を柔らかく照らしていた。
かわいい部屋……外と全然違う。
ソファに腰掛けていた男の人がちらりとこちらを見た。
あたしはフロントへと向かう。
「面接をお願いしてました、小山結衣です」
フロントにいた男の人は「ああ、はい」と小さく言うと、カウンターから出て、ついてくるようにあたしを促した。
「お待ちしてました。こちらへどうぞ」
ビルの中は思っていたよりも広かった。
ビー玉みたいに丸い明かりに照らされた道を歩くと、廊下の突きあたり、『事務』と書かれた扉の前で男の人は歩みを止めた。
ドアを開けて、中に向かって「小山さん、きました」と言ったあと彼はあたしに向き直った。
「中に支配人がいますんで」
「はい」と短く返事をして彼に向かって頭を下げると、あたしは開け放されたままのドアに入った。
「外、暑かったでしょ」
デスクとロッカー、流し台だけが置かれた部屋の中では、支配人と呼ばれた人がニコニコと笑顔でこちらを見ていた。
短く刈り込んだ白髪混じりの頭に下ぶくれの顔、年はお父さんと同じくらいだろうか、だぶだぶの白いシャツにスラックスをはいている。
「そこ座ってね」
促されるままに椅子に座ると、支配人はお茶をいれてくれた。
「『ディセンバー』の支配人をしてます、野田です。よろしく」
よかった……優しそうな人だ。
ほがらかな笑顔を見て、少し緊張が解れる気がした。
あたしはぐっと背筋を伸ばす。
「小山結衣です。よろしくお願いします」
◇
面接は雑談のような感じで進んだ。
『仕事』の経験はあるのか、働ける曜日や時間帯といったことのほかに、普段は何してるとか、好きな食べ物とかの軽い話題も混えながらだったので、思ってたより落ち着いて話すことができた。
「革命……?」
お店で働きたい理由を聞かれた時、正直に話したら支配人は怪訝そうに眉をひそめた。
しまった……みゆきさんの紹介だから、てっきり北十字の関係の人かと思って話してしまったけど、どうやら違ったらしい。
「まあ、若いし……でっかい目標があるのはいいことだね。応援するよ」
支配人はちょっと困ったような顔で笑った。
「じゃあ、採用だから、これからよろしくね」
そう言われてどくんと全身に戦慄が走る。
これで……もう逃げられない。
こんなところまで来て、いまだに働かなくていい道を探している自分に気づいて少し苦い気分になった。
なんて往生際が悪いんだろう。
もう、戻ることなんてできないし、戻るつもりもないのに。
あたしはできうる限りの笑顔で言った。
「よろしくお願いします」
◇
『革命戦士アイ』という源氏名は支配人がつけてくれた。
名前が決まったら次は写真の撮影だ。
お客さまは写真を見て『選んで』くれるので、写真はとても重要らしい。
カーキ色で立て襟の軍服みたいなジャケット、下はショーツ1枚という姿に、どこから持ってきたのか『毛主席語録』と書かれた赤い本で目もとを隠して撮影した。
よくわからないけど、支配人の中にある『革命戦士』のイメージがこれなんだと言っていた。
「アイちゃん、わかってると思うけど」
撮影が終わってから、支配人は真面目な顔で言った。
『アイ』と呼ばれるのはまだ慣れない。
「革命戦士はあくまで『キャラ』ってことにして、お客さんとかほかの女の子に対して勧誘とかはしないようにね。やりたいことがあるのは素晴らしいと思うけど、中には抵抗を感じる人もいるからね」
あたしはしっかりと頷いた。
もとより支配人に革命のことを話してしまったのもあたしのミスだ。
「じゃあ、アイちゃんは未経験だから、研修を受けてもらうんだけど……僕をお客さまだと思って、説明を聞きながらお仕事と同じことをやってもらうんだ……大丈夫かな?」
確かめるように支配人に目をのぞき込まれる。
『お仕事』と聞いて一瞬ぎくりと身がすくんだけど、あたしは頷いた。
事務室を出て『B』と書かれた部屋の前に来ると、支配人はプレートを『空室』から『使用中』にした。
支配人のあとに続いてあたしも部屋に入る。
中はひと区画がシャワーブースになっていて、それ以外のスペースはほとんどベッドが占めていた。
赤いギンガムチェックのベッドカバーに、イチゴの形の大きなクッションが2つ置かれている。
ベッドの上に腰を下ろすと、支配人はあたしに隣に座るよう促した。
「アイちゃん……世の中には、この仕事を『体を売る』っていう人がいるけど、僕は違うと思うんだ」
あたしの隣で支配人は真剣な顔で話す。
「女の子の体はたったひとつしかない大事なもので、売ったり買ったりはできないんだ。それでね、この仕事は、女の子が、女の子の部分……いちばん優しいところを使って、お客さまを癒してあげるものだと僕は考えてる」
支配人の声は静かだった。
「だからね、お金が大事なのは大前提だけど、それだけでこの仕事をしてもらいたくはないんだ。心と心のつながりを大事にしてほしい……できるかな?」
あたしは小さい声で「はい」と答えた。
少し、声が震えてしまったかもしれない。
「じゃあ、まずはキスからしてみよう」
そう言って支配人は自分の唇を指さした。
あたしはごくりと息をのんだ。
それまで、顔としか認識していなかったものが、目と鼻と口の集合体なことにはじめて気づく。
鼻の下、唇の端のほうに、剃り残したのか、太い髭が一本だけ残っているのが見えた。
あたしはぎゅっと唇を結ぶ。
アメリカだかどこかの有名な女優さんは、成功するまでえらい人たちと沢山エッチなことをしたらしい。
それに、いま恋人がいたり、結婚している女の人達も、もしかしたら『普通』の『しあわせ』を手に入れるために、好きじゃない人と付き合ったり結婚したのかもしれない。
それと、あたしが今からやろうとしていることと、何が違うんだろうか。
どくんと胸が鳴る。
なんで……なんで、あたしは必死に言い訳を考えているんだろう。
なんで、こんなときに誠さんの顔を思い出すんだろう。
支配人の唇はそこだけ周囲の肌から薄いピンク色に浮いていて、まるでナメクジみたいだ。
嫌だ。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
『露天風呂もあるよ』
不意に、温かい手のひらの感触がよみがえった。
『一緒に頑張ろう、結衣』
嬉しそうにあたしを見つめる琥珀色の瞳を思い出す。
そうだ……そうだった。
あたしはひとりじゃない。
どんなに嫌なことがあっても、辛いこと、痛いことがあっても、ももちゃんに手をつないでもらったら、きっと安心することができる。
だから、何があっても大丈夫だ。
あたしは支配人の唇にぎゅっと唇を重ねた。
ふにゃっと、まるで液体みたいに、思ったよりもずっと柔らかく唇は形を変えた。
あたしの、生まれてはじめてのキスだった。




