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第1話 透明人間とプリンアラモード

 蛍光灯の無機質な光に照らされた、棚の間をゆっくりと歩く。

ずらりと並ぶ棚には、色も大きさも違う本がぎっしりと収められている。


 透明のフィルムがかけられた本の背表紙には、すべて数字と記号の書かれたシールが貼ってある。

雑然と並んでいるように見えるけど、きっとあたしが知らないルールにしたがって、あるべきところに収まっているんだろう。


 ケースに入れられた、分厚い全集を何とはなしに眺める。

あたしは、本来ここにいてはいけない人間だ。


 親に連れられた子どもでもなければ、仲間との交流を求めてくる老人でも、資料を探しにきた学生でもない。


 火曜日の午前11時の図書館、まるで時間が止まったように静かなこの場所で、18歳のあたしは明らかに浮いている。

いや、もしかしたらあたしの存在自体、この社会にとって異物なのかもしれない。


 あたしは、社会とつながっていない。


 高校を卒業したあと、大学に行くでもなく、就職をするでもなく、ただこうやって時間が過ぎるのを待っている。

家にいてもなんだか気が滅入るし、かといって行きたいところもない。


 どこへ行ったらいいのかわからないまま家の近所をうろうろして、朝から夜まであたしを放っておいてくれる場所、図書館に流れついたころには、桜の季節は終わっていた。





 ロビーに出ると、女の集団のかん高い笑い声が聞こえた。

子ども向けのイベントでもあったのか、主婦っぽい人が集まって話している。


 彼女たちは『子育てをがんばるお母さん』の肩書きをもって、ここに存在することを許されている。

きっと、学生時代もああやって『今が最高に楽しくて大好き』って感じの顔をして、大きい声ではしゃいでいたんだろう。


 会話の中身はどうでもいい。

ただ、相槌をうつタイミングと笑い声をあげるタイミングだけは絶対に間違えてはいけない。


 あの世界では『楽しくて最高な私たち』の輪に入れなかったものは、存在しないのと同じだ。

そこにはいるんだけど、風景の一部みたいなもので、いなくなったとしてもきっと誰も気がつかない。


 あたしが弾きだされた世界のことを思い出して、少し苦い気分になる。


 別に、いじめとか、失恋とか、そんな決定的な出来事があったわけじゃない。

勉強はそこそこ得意で、高校は名門ってほどじゃないけど地元ではそれなりに有名な進学校に入った。


 高校生活は平和そのものだった。


 中学校のときと違って授業中に騒ぐ生徒もいなかったし、レベルの高い勉強にはじめは戸惑ったけど、1学期が終わるころにはペースもつかめてきた。


 入りたい部活もなかったし、特にトラブルもなく無風の日々は過ぎていった。


 教室では輪の中心ではしゃぐ女の子たちのノリにはついていけなくて、静かに時間が経つのを待っていた。

お昼ごはんを一緒に食べる子はいたけど、その子とも学校以外で会ったことはなかったし、きっと休みの日にはあたしより仲のいい子と一緒に過ごすんだろう。


 そんな感じで夏休みも学園祭もやり過ごして、大学受験に向けて勉強していたとき、ほんとうに急に、いきなり何もかもが嫌になった。


 このまま、有名な大学に入って、いい会社に入って……それがいったい何になる。


 この先もこうやって、いてもいなくても同じような感じで生きていくのかと思ったら、自分の人生がものすごく味気なくて、つまらないもののように感じた。


 それからは早かった。


『あたしのレベルなら十分狙える』大学のパンフレットも、『安全圏まであとひと息』と書かれた統一模試の結果も全部どうでもよくなった。


 大学に行く意味が見出せないと言いだしたあたしに、親も先生も困り果てていた。

やりたいことは大学に行ってから探せばいいとか、留学という選択肢もあるとかいろいろ言われたけど、あたしの考えが変わることはなかった。


 当然だ。だってあたし自身が、何をしたいのかを見失っていたんだから。

ただ、このまま『それがよい』とされてる道になんとなく進んでも、その先にあたしの人生なんてない、その恐怖にも似た感覚だけがはっきりしていた。


 共通試験の出願をスルーしたあたりから、まわりが何をいうこともなくなった。

出席日数は足りていたので、自由登校になってからは学校にも行かず、卒業式だけは出席したけど終わったあとのパーティーにも行かなかった。


 高校を卒業して、いよいよ何者でもなくなったあたしは、社会から完全に切り離された存在になった。

こうやって外から眺めると、人は人に認識されることによってはじめて、その存在を確かなものにしてるように感じる。


 ここにいるはずなのに、誰からも認識されないあたしは、まるで透明人間みたいだ。





「本が好きなの?」


 横から急に声をかけられてどきっとした。

あなた、あたしが見えるの? 思わず言いそうになった。


 話しかけてきたのは長い髪を後ろでひとつに束ねた細身の女の人だった。

天然素材っぽいふわっとしたシャツにシンプルなスカート、全体的に質素な雰囲気からは年齢が読めない。

年上なのは間違いないけど、20代のようにも見えるし、お母さんより年上って言われたらそんな気もする。


「最近よく図書館で見かけるなって思っていたのよ」


 女の人は落ち着いた声で言った。

すっかり透明人間になってしまったと思っていたのに、あたしのことを見てる人がいたのか。


「あのね、あなたさえよかったらなんだけど、ちょっと仕事をお願いできないかと思って」


「はあ……」


 なんとも気の抜けた声が出た。

ここのところ、人と会話らしい会話なんてしてなかったから喋りかたを忘れてしまったみたいだ。

まあ、もともとそんなに口が立つ方ではなかったけど。


 女の人はあたしの反応を気にしてないのか、ゆっくりとした口調で話を続けた。


「よかったら話だけでも聞いてもらえないかな。時間はとらせないから」


 キャハハハハ! と主婦たちの笑い声が女の人の声に重なった。

妙に耳につく声から逃れたくて、あたしは小さく頷いた。





 目の前に置かれた、カラフルなフルーツと生クリームがどっさり乗った皿を見てごくりと喉を鳴らす。


 あたしたちは図書館とロビーを共有する、市民ホールの喫茶室に来ていた。


「自己紹介が遅れました。私は則本(のりもと)みゆきといいます」


 みゆきさんは向かいの席でホットコーヒーを飲みながら言った。


「あ、小山結衣(こやまゆい)といいます」


 モゴモゴと言いながらあたしはプリンアラモードから目が離せなかった。

ここのところ、勉強も運動も何もしてなくてただボーッと時間が経つのを待ってるだけなのに、何故だかいつもおなかが空いて仕方がなかった。


 喫茶室のサンプルウインドウはいつでも美味しそうだと思っていたけど、もちろんお金なんかなくて、ただ眺めているだけだった。


「いただきます!」


 固めのプリンをひと口食べると頭の芯が痺れるような濃厚な甘さが広がって、もう止まらなくなった。

夢中でプリンアラモードを食べるあたしを楽しそうに眺めながらみゆきさんはゆっくりと話し始めた。


「やってもらいたい仕事っていうのはね、本の朗読なの」


 朗読? あたしは口の中をフルーツでいっぱいにしながら目だけでみゆきさんを見る。


「この近くに住んでるおじいちゃんなんだけど、高齢で目が悪くてね。自分で読めなくなっちゃったから、読み聞かせてくれる人を探しているのよ」


 みゆきさんの話によると、あたしの前に朗読をしてた子が辞めちゃったから後任を探しているとのことだった。

仕事は週4回、休憩をはさんでだいたい2時間くらいだけど、おじいちゃんの体調によっては1時間も起きていられないこともあるらしい。

それで報酬は1日で4千円。

この金額が高いのか安いのか、今のあたしにはわからなかった。


「別に今すぐに決めなくてもいいから。少しでも興味があったら、ここに連絡してちょうだい」


 名残惜しそうに皿に残ったクリームをスプーンですくうあたしを見ながら、みゆきさんは柔らかい笑顔で言った。

ほんのり薄緑色の和紙みたいなメモに書かれていたのは、電話番号だった。





 ベッドに転がって天井を眺める。

昼過ぎに帰ってきてから、ずっとこの体勢だ。

照明を消したままの部屋はいつの間にか真っ暗になっていた。


 無風だったあたしの世界に、知らない風が吹き込んできた。

犬も歩けば何とやら……あんなふうに話しかけてもらえるなんて思ってもいなかった。


 なんの感情なのか、急に涙が出そうになる。

あたしは透明人間じゃない、ちゃんとあそこに存在していたんだ。


 でも……朗読かあ。

喋るのはあまり得意じゃないし、そもそも本を読み上げる訓練とかもしたことがないのに、あたしにできるのかな?


 そこまで考えて、ふと気づく。

あたし、朗読の仕事を受けようと思ってるんだ。


 八方塞がりだったあたしにひとつの道が示された。

その先にあたしの望んだ世界があるのか、それはわからない。

でも、少なくとも学校では出会えなかったものがあるはずだ。


「結衣ー! ごはんできたよー」


 階下からお母さんの声がして、あたしの考えは中断された。





「それでさ、図書館で誘われたんだけど、どう思う?」


 大根おろしとポン酢がかかった鶏の唐揚げをごはんと一緒にかきこみながら昼間のことを話した。


 食卓にいるのはお母さんとお姉ちゃん。

お父さんは仕事で、もう少し遅い時間に帰ってくる。


 お母さんは食事の手を止めて聞いていたけど、おずおずと口を開いた。


「結衣は、その、どうしたいの?」


「やってみようと思ってる。せっかく誘われたんだし」


 なるべく自然な感じで話そうとしたけど、緊張して声が震えてしまった。

ものすごく心臓がドキドキして、顔が熱くなってるのがわかる。


「そう……」


 お母さんは少し口をつぐんだあと控えめに笑った。


「いいんじゃない、やってみたら?」


「うん」


 お母さんにそう言ってもらえたらなんだかほっとして、あたしは2杯目のごはんをよそいに立ち上がった。





「あんた、本当にその……本の朗読だっけ? するつもりなの?」


 食事の片付けを終えて部屋に戻ろうとしたとき、お姉ちゃんに声をかけられた。


 お姉ちゃんはふたつ年上で、東京の大学に通っている。

大学に入るすこし前から髪の毛を金に近い茶色に染めて大きい黒コンを入れるようになって、服装もすごく派手になった。

昔から似てないと言われていたけど、あまり見た目に構わないあたしと並ぶと、もうとても姉妹には見えない。


「うん、そう思ってるけど」


 さっき食卓では何も言わなかったのに、なにか言いたいことがあるんだろうか。


「あんたさ、そんなことしてる場合じゃないでしょ」


 お姉ちゃんは声を低くして言った。


「高齢者との心温まるふれあいだか、地域社会のボランティアだか知らないけどさ、そんなヒマなことしてたら、どんどん社会に置いていかれるよ」


 あたしは言葉が出てこなかった。

胸がぎゅっと苦しくなって、少しにらむような目つきでお姉ちゃんを見てたかもしれない。


「とにかく、お母さんはあんたに甘いからああ言ってたけど、もっとちゃんとしなよ」


 お姉ちゃんはそう吐き捨てるとさっさと部屋へ戻っていった。


 自分の部屋に戻ってベッドに入ると、急に悔しくなって涙が出てきた。


 お姉ちゃんはこの先も余計な疑問なんて持たずに就職して、結婚して、昼間の主婦みたいに大声で笑いながら生きていくんだろう。

そして『ちゃんと』輪の中に入れないあたしの苦しみはわからない。


 きっとそれが普通で、外れてしまったあたしのほうが異常なんだ。


 お姉ちゃんにだけは泣いてることを知られたくなくて、必死に声を抑えた。

でも、涙はどんどんあふれてきて、気づいたら掛け布団がぐちゃぐちゃに濡れていた。

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