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三章 invisibleな暗夜

1、

「あっっのハゲ!!」

 奈美香は猪狩の部屋で怒鳴り散らしている。せっかくの晩餐をワサビ入りモンブランで締めることになったので、たいそう気分を害したようだ。

「ハゲてはいない」

 そんな奈美香に対しても猪狩は冷静に対応する。もちろん禿げていないのは奈美香もわかっている事だ。単にあの年代の男性を侮辱するのに一番適した単語というだけであろう。   

 それにしても、あえて二年連続で同じ手を使ってきたか。奈美香は見事に引っかかってしまったわけだ。猪狩は他人事のように見ていた。現に他人事なのだが。

「うるさい!! あーもう、最悪よ! あんなに美味しい料理だったのに台無しだわ!」

「わかったから、静かにしてくれ」

「これが静かにしていられる!? 無理よ無理! ああ、ぶん殴ってやりたい!」

 奈美香はベッドの枕を思いっきり殴りつけた。バフッという心地よい音をたてたが、もし人間相手ならかなりの痛手を負わせられるだろう。

 扉をノックする音が聞こえた。

「どうぞ!」

 猪狩の部屋にもかかわらず、奈美香が不機嫌な声で応答する。遠慮がちに扉が開くとそこには教授の娘の結衣が立っていた。長い黒髪と、薄化粧がおしとやかな雰囲気を出していた。大和撫子とは彼女のよう人を指すのだろう。

「あ、えっと……結衣さんでしたっけ?」先ほどとはうって変わって奈美香は口調を直し、礼儀正しく応答した。

「はい、あの、入っても?」結衣が躊躇いがちに聞いた。

「ええ、どうぞ」

 奈美香は結衣を招き入れる。猪狩の部屋ではあるが。

「あの、父が大変失礼な事をしました。すいませんでした!」結衣は深々と頭を下げた。

「あ、いえ、結衣さんが謝ることじゃないですよ」

 あまりに唐突に謝られたので、奈美香はうろたえて、とりあえずフォローした。

「私たちも父に付き合わされて、ちょっと迷惑しているんですけど……」結衣は苦笑した。

「大変ですね」

「ええ、それじゃあ、本当にすいませんでした」

 結衣はもう一度頭を下げて部屋を出て行った。

「律儀な人ねえ、わざわざ謝りに来るなんて。でもなんで康平の部屋にいるってわかったのかしら?」

 奈美香は首を傾げた。猪狩は「あれだけ騒げばわかるだろう」と言いたかったが顰蹙を買うだけだったのでその言葉を飲み込んだ。

 突如廊下から悲鳴が聞こえた。この声は結衣である。

「何!?」

 二人は部屋を飛び出した。廊下で結衣がうずくまっている。木村、阿久津、瀬戸も飛び出して出てきた。

「一体どうしたの!?」瀬戸が困惑した表情で聞いてきた。

 結衣は廊下の奥を指差した。皆がそちらを向く。窓の向こうに別館の窓が見え、明かりが点いている。三階に上がってきたときは点いていなかったはずだ。その窓から椅子に座っている教授が見えた。 しかし、普通の状態ではなかった。

 窓から見えるそれは日常を切り取った絵画のように見えた。教授は椅子に深く腰掛け、右手は肘掛に、左手はすぐ横のテーブルの上に置かれている。

 いかにも、テレビを見ていて眠ってしまった、というような姿。

 

 ただ、そこにある唯一の非日常の部分。教授の左胸にはナイフが。


「そんな……」阿久津は絶句している。

 奈美香は窓に映る教授の姿を見て、走り出した。

 奈美香は階段を駆け下りる。後ろから猪狩、阿久津、瀬戸が続いた。二階で柏田とぶつかりそうになった。

「っと、どうしたんですか!?」二階にも悲鳴が聞こえていたらしく困惑の表情が見て取れる。

「教授が別館で刺されたんです!」奈美香は足を止めずに説明した。

「な!? そんな!!」柏田も驚き後に続いた。

 玄関の扉を乱暴に開ける。ゆるい傾斜を駆け上がり、階段は二段飛ばしで駆け上がる。飛ぶように、三度で上りきる。

 別館は予想通り狭く一部屋と階段しかなかった。階段を駆け上がり、三階へと向かう。やたらと長く感じる。なぜ目的地というのは、急げば急ぐほど道のりが長く感じるのだろう。やっとの事で部屋にたどり着き奈美香はドアノブに手をかけるが回らなかった。

 次に猪狩がたどり着いた。遅れて阿久津、瀬戸、柏田が到着した。歳のせいだろう皆息を切らしている。

「鍵がかかっています」奈美香は柏田に向かって言った。

「え? ここは普段鍵をかけないのですが……。取ってまいります」そういうと柏田は階段を駆けていった。しばらくして木村が上ってきた。


2、

 木村は本館の三階に残った。皆と一緒に行こうとしたときに誰かに服の裾を引っ張られた。振り返ると結衣が地面にうずくまったまま、裾をつかんでいた。ここに一人残していくのも悪いと思いその場にとどまった。

 こういったとき何と声をかければいいのだろう? 大丈夫? 落ち着いて? 適当な言葉が見つからないので黙っていた。なんとなく廊下の窓に目をやる。

「あれ?」

 別館の窓のカーテンが閉まっていく。犯人がまだ中にいるのだろうか?

「大丈夫かな?」もし犯人が中にいるのであれば奈美香たちが危ない。もう部屋に着いたころだろうか。それでも知らせた方が良いかもしれない。

「あの、お嬢さん、僕行きますけど大丈夫ですか?」

 結衣は頷いた。「私は部屋で休んでいます……」

それを聞いて木村は走り出した。たかだかすぐ隣にある別館だ。三階から降りて別館に移り三階から上がっても二分ほどしかかからなかった。別館の二階と三階の間の階段で柏田とすれ違った。

「鍵を取ってまいります」彼は走りながら説明した。


3、

「あれ? 良兄」奈美香が首を傾げた。「ここ、鍵がかかってるの」

「そうなのか? 君たちが走っていってから、部屋のカーテンが閉められたんだ」

「え!? それって……」瀬戸が驚き目を見開いた。

「たぶん、犯人は中にいる」

 この場にいる人たちに緊張が走る。

「おい、どうする?」阿久津が聞いた。

「武器を持っているかもしれませんね。人を殺しているくらいですから」

「警察に連絡した方がいいんじゃない?」今度は瀬戸が不安そうな顔で聞いてきた。

「ええ、もちろん。でもどれくらいかかると思います?」

 ここは山の中の別荘だ。車でも一時間はかかるだろう。

「それまでここで見張っているわけにもいきませんし、相手も篭城する気なんてないでしょう。けどナイフで刺しているから、拳銃は持ってないでしょうし、頑張れば何とかなるんじゃないでしょうか」木村は冷静に説明したが、冷や汗をかいている。

 柏田が上がってきた。息を切らして額には汗が浮かんでいる。

「柏田さん、鍵!」奈美香が催促する。

「奈美香は下がってなさい。猪狩君も」木村が奈美香を引き止める。

「私が行きます。こう見えても武術をやっていたので」柏田がそのまま前へ出る。

「いえ、僕が。ご老体にはきついでしょう」

 その通り、鍵を取りに行った事で柏田は息が切れている。柏田は面目ないと言って木村に鍵を渡した。

 奈美香は目で訴えたが渋々引き下がった。木村は鍵を開ける。心なしか、震えているように見える。 そっとドアノブを回し、少しだけ開けた。

「……え!?」

 木村は驚いたような声を上げ、ドアを全開に開いた。


 そこには、誰もいなかった。


 真ん中にはテーブルと一人がけのソファー、テーブルの上にはリモコンが置かれている。壁際には本棚、テレビなど少し家具があるだけ、本棚にはあまり本は入っていない。

「なんで!? ここ、三階よ?」奈美香は驚きのあまり口が開きっぱなしになっている。他の面々も同じようなものだ。その中で、柏田がハッとなって口を開いた。

「奥様とお嬢様……」

 ここには、木村、奈美香、猪狩、柏田、阿久津、瀬戸の六人。つまり、本館には静江と結衣、か弱い女性が二人だけである。

「急ぎましょう」

 木村が言い出し、六人は急いで本館へ戻ることにした。


「一体どうなってるの?」

 本館に戻る途中で瀬戸が言い出したが、急いでいるので誰も答えない。それに、誰もがそれを知りたいだろう。

 玄関に入るが異常はない。こちらには何も起こらなかったのか。

 ところが、段々と何かの匂いが漂ってきた。二階からのようである。

「血の匂いだ……」

 急いで階段を駆け上がる。談話スペース、そこには、


 心臓を一突きに刺され、椅子に腰掛けた、窓から見たままの佐加田教授の姿があった。


4、

 警察がもうすぐ来る、それでいくらか安心できるだろう。猪狩と奈美香は猪狩の部屋にいた。教授を発見した後、すぐに柏田が警察に電話をかけた。幸い、電話が繋がらないといったミステリーの定番のような出来事は起こらなかった。 

 その後、結衣が部屋から出てきて、あの光景を目の当たりにしてしまった。何とか柏田や木村が落ち着かせたが、問題はこの後である。静江は体調が悪かったらしくパーティーの途中からずっと休んでいた。薬を飲んで寝ていたのでまったくこの惨事には気づかなかったらしいのだが、いつまでも黙っているわけには行かないので事情を話しに行ったところ、あまりのショックに卒倒してしまった。今は瀬戸が看病しているそうだ。

 殺人鬼がうろついているかもしれないという事で一ヶ所に集まろうという提案があったが、奈美香がそれを丁重に断った。

「ねえ、どう思う?」

 奈美香が話を切り出した。

「何が?」

「何がって、この事件よ! まさか、あんたも外から殺人鬼がやって来て死体消失トリックをお披露目した後、逃げてったとでも思ってるの!?」奈美香は憤慨して言った。

「まさか、そんなわけないだろ。明らかに、いや、明らかである根拠はないけど内部の犯行だろ」

「でしょ? わざわざこんな山奥まで来て人を刺してあんな奇天烈な事やらかす人間がいるもんですか!」

 奈美香はまくし立てるように言った。

 奇天烈? 今どき使わないな。と思ったが猪狩は突っ込まない事にした。それに内部の者の犯行だとしてもあんな奇天烈(あえて使う)な事をする理由はないだろう。

 猪狩はため息をついて、

「落ち着け。人ひとり死んでるんだ」と言った。その言葉は猪狩にしては語気が強かったようだ。

「そ、そうね……」猪狩の言葉で幾分落ち着きを取り戻したようだ。

「それにみんなわかってるだろ。ただ、自分たちの中に犯人がいるなんて思いたくないだけだ」

「そうだけど……」

「わかってるならいい。俺としては、あとは警察に任せたいんだが……」

「嫌よ、そんなの」奈美香はきっぱりと言った。

「やっぱりそうなるの?」

「どうやったのかしら? どうやって、あたしたちが現場に着くまでの一、二分で死体を本館の二階に移したのか……」

 奈美香はすでに冷静な時の、そして好奇心で思慮に耽る時の彼女に戻っている。この切り替えの速さは他人には真似できないだろうと猪狩は思う。

「窓と窓を縄で繋いでロープウェイみたいにするか……。ああ、窓を調べておくんだった。いや、でもそんなことできるかしら? あ、良兄が途中でカーテンが閉まったって言ってたわね。それじゃあ、もっと時間は短くなるわけだ……」

 奈美香はああでもない、こうでもないと独り言のように意見を出していく。

「でも、二階の窓は現場とは端と端で静江さんや結衣さんの部屋を通るから、三階から降ろしたのかも……」

「錯視って知ってる?」猪狩が突然話し出した。

「え? あの「=」に「ハ」を書くと長さが違って見えるとか?」

「そう、それはポンゾ錯視だ。他にミュラー・リヤー錯視やツェルナー錯視が有名どころだ。矢印の向きで長さが違って見えるやつとか、平行線に向きの違う斜線を入れると斜めに見えるやつとか」

「……で?」

「いや、それだけ。俺が言いたいのは人間の感覚器官はそれだけ曖昧だっていうこと。その例が錯視だっていうだけ」

「はあ、それが事件と関係あるの?」

「さあ? 関係あるかもしれないし、関係ないかもしれない。仮に関係あったとしても、今のところ事件を説明する事はできないね」

「……あんた、なんかわかったでしょ」奈美香は猪狩をジト目で睨む。

「ノーといったら嘘になる。けど俺はできれば警察に任せたいし、別館に確認しに行かなきゃいけなくなる」

「じゃあ、行きましょうよ。あたしもいろいろ調べたいし」

「いや、恐いから嫌だ」

「はあ?」奈美香は訳がわからず首を捻る。「警察に後で怒られるのが恐いの?」子どもじみた意見だと馬鹿にしているようである。

「馬鹿にすんな、そうじゃない。もし、もしだけど、俺の考えがあっていれば、そろそろ犯人は別館を


 そのあとは音にならなかった。強烈な爆音が響いてきたのだ。

「キャッ!? 何よ!!」

「ああ……たぶん別館だ」

 二人は急いで外に出る。他の者も爆音に驚いて出てきている。外に出ると猪狩の予想通り、音源は別館だった。そしてその別館は今、燃えている。音を聞いた限り、ただの火災というよりも爆発に近い感じがした。一階が火元らしく今にも根元から倒れそうである。


 そう、今にも。


「あ、危ない!!」誰かが叫んだ。いや誰もが叫んだ。慌てて皆が別館から離れる。そしてついに別館は音をたてて崩れ落ちた。

 ベルリンの壁が崩れた時のような驚きと、ジェンガを崩してしまった時のような失望感が辺りを包んでいた。

「何なのよ、もう!」奈美香が叫んだ。

「消防車、呼んだ方がいいかな?」

 猪狩はいたって冷静だった。上階はまだ火が移っていなかったので、その残骸が火の勢いを殺し、あまり火は広がっていない。本館は壁が黒焦げに、瓦礫で一階の窓が割れただけで、奇跡とも呼べる状態だった。

 遠くから、サイレンの音が聞こえた。


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