二章 crazyな晩餐
1、
「ねえ」しばらく黙っていた奈美香が口を開く。「本当にあってるの?」
木村、猪狩、奈美香の三人は車で山道を走っていた。車は木村が運転している。中古で買った日産のブルーバード。かなり古い型で今時オーディオがカセットテープという骨董品である。昔から運転しているのならそういう事も普通なのだろうが、この車を買ったのはつい数年前なので、もっと良い車を買えばよかったのに、と奈美香は思っている。
「あってるよ。もうすぐだから」
木村はさすがに正装で髪もしっかり整えている。こうしてみると意外と男前だと思うが、普段の寝癖頭と散らかりっぱなしの部屋を見れば、三十にもなって彼女がいないのも(もちろん過去にはいたのだろうが)頷ける。
「もう、何回も聞いたんだけど。ああ、暇だわ」助手席に座る奈美香は狭い車内で精一杯の伸びをする。
「じゃあ、暇つぶしにクイズでもやろうか」
「いいわよ。なんでもかかって来なさい!」
「じゃあ、行くよ。
ある小学校で、調査をしたところ生徒達にある共通点が見つかったんだ。
算数が好きな子どもは国語が嫌い。
理科が嫌いな子どもは国語が好き。
理科が好きな子どもは社会が嫌い。
じゃあ、正しいのは次のうちどれ?
1、理科が好きな子どもは国語が好き。
2、社会が嫌いな子どもは算数が好き。
3、国語が好きな子どもは理科が嫌い。
4、算数が好きな子どもは社会が嫌い。
さて、どれだ?」
「いっぺんに言われてもわからないわよ。えっと、算○→国×……」奈美香は携帯電話を取り出しメモしていく。
「3じゃないの?」奈美香は首を傾げながら言った。
「はずれ」木村は意地悪く微笑んだ。なんだかその表情が憎たらしい。
「えー? なんで?」
「高校で数学やった?」
「それ、馬鹿にしてる?」奈美香は頬を膨らませる。
「あんた、わかる?」奈美香は後ろに振り向き、猪狩に聞いた。
「……4」猪狩はそれだけ答えた。いつもに増して不機嫌な様である。
「お、正解。さすがだね」
「なんで?」奈美香は猪狩に尋ねるが猪狩は何も答えない。奈美香は舌打ちして、運転している木村の方を向く。
「えっとね、高校で命題ってやったろ? で、もとの命題と対偶をたどっていけばいいのさ。命題が真でも逆と裏は真とは限らない。けど対偶は必ず真だからね」
「あ、そうか」
「そんなに難しくない……」猪狩が呟いた。奈美香は思いっきり猪狩を睨みつける。猪狩は奈美香を無視して依然不機嫌な表情である。
「着いたよ」
奈美香が前を向きなおす。今まで車の両側は森だったが、視界が開けてきた。立派な洋館が見えてくる。
車を館の前の駐車場に停める。三人は降りたが、猪狩がまっすぐ森の方へと向かう。
「あれ、どこ行くの?」木村が訝しげに聞いた。
奈美香はすぐにわかった。なるほど、不機嫌そうに見えたのはこのためか。そして、できる限り呻き声を聞かないように努めた。
2、
その洋館は変わっていた。館自体はおかしくない、三階建ての立派な建物だ。三階建てというのも少し変わってはいるが。しかし、それよりも変わっているのは右側に別館が付いているの事だ。別館といっても塔のようで、本館より少し高く、こちら側には窓がない。
そのためこちらから見ると大きな四角い筒のように見えて、それがこの建物の異質さを醸し出していた。この大きさなら一つの階に一部屋しかないだろう。
「あの建物、何?」奈美香は木村に尋ねた。
「さあ? 教授って変わってるから。考えるだけ無駄だよ。さて、行こうか」
奈美香は変わっているとはいえ、立派な建物を前に気分が高揚しているようだ。三段ある段差を一気に飛び越えてしまった。
「危ないよ、もう」木村は苦笑いして、ベルを鳴らす。
しばらくして男の声がした。あまり若そうな声ではない。
「どちら様でしょうか?」
「あ、O大の木村です。どうも」
「はい、少々お待ち下さい」
また、しばらくの間があって扉が開いた。迎えたのは初老の男性だった。細身で白髪交じりだが端正な顔立ちが印象深い。
「お久しぶりです。柏田さん。」木村が深々と礼をした。
「一年ぶりですね、木村様。寒いでしょう、中へどうぞ」
柏田に促されて三人は中へ入った。
奈美香の印象としては、意外と質素、だった。吹き抜けで高い天井のホールに豪華なシャンデリアと絨毯の敷かれた大きな階段を想像していた。
しかし、吹き抜けでシャンデリアだが、通常の家の二階と同じくらいの高さに天井がある。という事はこのさらに上に三階がある事になる。階段のさらに奥に階段が見える。奥行きからして折り返し階段だろう。
質素とはいっても、金持ちの別荘を意識すればの事で照明や絨毯などは十二分に高そうに見える。さすがに銅像や絵画はなかったが。左右に扉が一つずつあった。
「意外と質素なのね」奈美香は口に出した。「部屋も少なそうだし」
「右が食堂、左が応接間でございます。奥には厨房や物置などもございますがここから直接いけるのは二ヶ所ですね。そのかわり広いですよ。二階が昌弘様とご家族の部屋で、三階が客室となっております。三階建てなので一階は部屋が少なく広くできるんです。上の階にいくらでも部屋がありますから」柏田が説明した。「ゼミ生ですか?」
「いえ、ゼミ生には丁重に断られまして……。従妹なんですよ、矢式です。あと友人の猪狩君」木村が苦笑いして答えた。
「矢式奈美香です。よろしくお願いします」奈美香は頭を下げた。
「猪狩康平です」猪狩も浅く頭を下げた。
「柏田と申します。佐加田家の使用人をやらせていただいております」柏田が深々と礼をする。三人の中で一番深い。
「では、お部屋にご案内します」そう言うと柏田は踵を返して歩き出す。三人も後に従った。
「ねえ、大学の教授ってこんなに金持ちなの?」奈美香が木村に囁いた。
「まさか、そうだったら僕ももっと真面目に研究してるよ。佐加田家はよくわかんないけどすごい家系らしいから、その遺産だろうね。柏田さんも教授のお父さんに仕えてたらしいし」
仕えていた、という単語が少し時代錯誤に思えた。この時代にそのような職業があることに奈美香は驚いた。
二階に上がると左手に広い空間が見えた。ちょうど応接間の上にあたる部分である。ソファなどがある事から談話スペースのような所だろう。反対側、つまり食堂の上は通路があり、奥にいくつか扉が見えたが立ち止まることなく三階へと上がったのでよくわからなかった。三階は吹き抜けがない分、広いスペースがあり、同じように談話スペースがあった。
部屋がいくつもあり、廊下の先には、暗くてよく見えないが、別館があるようだった。目と鼻の先である。三人の部屋は階段の隣から猪狩、奈美香、木村の順だった。
「では、夕食パーティーは七時からですので」
奈美香は時計を見た。現在六時三十五分。それほど時間はない。
「教授って、どこにいます?」木村が尋ねた。
「お部屋におられると思います。ご案内いたします」
「じゃあ、君たちは七時になったら食堂に行ってね」木村はそう言って柏田と共に二階へ降りていった。
「あー、いいなあ。私もこんな所に住んでみたい!」
「別荘だから、住んではいない」猪狩が久々に口を開いた。
「……人の揚げ足取らないでよ」奈美香は猪狩を睨んだ。
「おやおや、ずいぶん若いお客さんだなあ」
木村の部屋の向かいから男が出てきた。やや大柄で少し白髪が混じっている。頬に大きなホクロがあった。
「私たち木村先生について来たんです。矢式といいます。こちらは猪狩です」どうせ黙っているだろうと思い猪狩の分まで紹介する。
「どうも」案の定、猪狩は軽く頭を下げただけだった。礼儀を知らないわけではないが人見知りをする方で、たいてい猪狩に対する第一印象は良くならない。昔はもっと活発だった気がすると、奈美香は少し過去を回想した。
「ああ、木村君ね。彼も律儀だなあ。他の教授なんてもう来ないのに。あ、俺は阿久津彰って言うから。昌弘とは高校、大学で一緒でさ。そうそう、“やしき”ってどういう字を書くの? 家の屋敷?」
「いえ、弓矢の矢に、数式の式です」
五十代前半くらいだろうか。しかし若々しい雰囲気が出ていたし、ずいぶんと気さくな人だなと奈美香は思った。
「さて、じゃあまた後で」そう言って阿久津は階段を下りようとする。
「あ、私たちも行きます」ここにいても何もする事がないので二人も食堂へ向かう事にした。
3、
食堂にはすでに何人かの人がいた。木村もいる。テーブルの上にはすでに料理が運ばれており、オードブルが大小さまざまな食器に盛り付けられ、湯気が美味しそうな匂いを鼻まで運んできた。
「あ、阿久津さん。お久しぶりです」こちらに気づいた木村が阿久津に挨拶をする。
「そうだね、年に一回しか会わないから」
「阿久津さんも大学の関係なんですか?」
木村と阿久津が親しそうに話すので奈美香は疑問に思った。
「いや、俺は普通のサラリーマンだよ。俺と木村君だけ皆勤賞だから、もう覚えちゃったんだ」
阿久津は白い歯を見せて笑った。事前に聞いた話ではこのパーティーは評判が良くないので、阿久津は物好きな方だといえる。確かにこの四人を除けばあとは三人しかいない。
二十代前半と思しき女性と中年の女性が二人。そのうちの一人がこちらに向かってくる。
「あら、彰君じゃない。久しぶりね」女性が阿久津に向かって微笑んだ。
「ん? 京子じゃないか。五年ぶりくらいか?」
「ええ、そのくらいね。えっと……」奈美香たち三人を見て少し考え込んだ。「あ、あなたには一回会ったわね」彼女は木村に尋ねた。
「ええ、教授のパーティーで。こちらは従妹の矢式とその友人の猪狩君」
「どうも。矢式奈美香です」本日何度目になるだろうか。自己紹介をして会釈した。猪狩もそれにならった。
「はじめまして。瀬戸京子です。」瀬戸はにっこりと笑って礼をした。「それにしても少ないわね。久しぶりに来てみたんだけど」
「まあな、忙しい奴もいるし、愛想尽かしたやつもいるからな。怜次とか来そうだったんだけどな」
「懐かしいわね、怜次君。そういえば……」
二人が昔話に花を咲かせてしまったので、三人はその場を離れる事にした。
「うーん、今年は特に少ないなあ」木村が呟いた。
「あの人は?」奈美香はソファーに座っている、女性に目をやる。
「あの人は教授の奥さんだよ。静江さん。で、あっちが娘の結衣さん」
「ふーん。もしかして、これで全員?」
「そうみたいだね。あとは教授だけか。あ、来た来た」
ホールとは別の奥の扉から、中年の男性が出てきた。彼が佐加田教授ということか。
髪は豊かだが若干白髪が混じっている。中肉中背で普通すぎて表現しづらい。ヒールを履いた静江より少し高いくらい。痩せているとは言い難いが、決して太っているわけではない。
「おうおう、今年は少ないねえ」入って来るなり教授は顔をしかめた。
「あんたの破天荒さについていけないのさ」阿久津が笑って冷やかす。
「ということは、君らは私についてこれる猛者というわけだ」教授は声を上げて笑った。「さて、別にどうこうしようって事はない。まあ、乾杯くらいはしておこうか」教授がそう言うと、静江が教授のグラスにシャンパンを注ぐ。客の方は、いつの間にかやってきた柏田が、注いでいた。
「じゃあ、乾杯」形式ばった事が嫌いなのだろう。適当に挨拶を済ませると、グラスを上げ、口につける。
「では、皆さん遠慮せずにお食べ下さい」静江の方が口を開いた。
奈美香は事前に聞いていた情報から、食べるのを少し躊躇った。しかし、皆が食べるのを見て食べ始めた。
「うわあ、美味しい!」
「ワサビは入ってないみたいだね」木村がそういったのが聞こえたが、もはや奈美香にはどうでもよかった。あまりに美味しいので警戒するのがもったいない。いや、この手は去年使ったから、今年はむしろ安全だろう。おまけに立食なので、周りに自分がどれだけ食べたか知られにくい。食い意地が張っていると思われたくないので好都合だ。
「ずいぶん食べてるな」
しばらく食べていると隣で猪狩が話しかけてきた。見事にばれていたようだ。
「いいじゃない、美味しいんだから」
「それはそうと、この後何かあるのか?」
「え? さあ、何もないんじゃない?」
「なかったら俺を呼ばないだろ。藤井はともかく新川を呼ばないのは面倒な事があるときだ。それに電話で俺が即決したときの反応を聞けばなおさらだ」
猪狩の言うとおりだ。しかし、奈美香自身料理の美味しさにすっかり忘れていた。とはいえ、本当に何も起こらないのではないか。
「ああ、忘れてた。教授が悪戯好きっていうだけよ。去年はデザートがロシアンルーレットになってたらしいわよ」
「たちの悪い悪戯だな」
「まったく、今年は何も起こらないといいけど」
「毎年やっているんなら、望みは薄いな」
そういえば一昨年以前は何をしていたのだろう。すぐそばに木村がいたので聞いてみた。
「ねえ、良兄。一昨年はどんな悪戯だったの?」
「ん? ああ、なんだっけな……そうだ、確かお土産がびっくり箱になってたんだ」
「……くだらない」
「うん。で、その前が酷かった。玄関の前が落とし穴で、見事に僕がはまった」
「……危険ね」
「その前は、部屋に血みどろ死体が……」
「え!?」
「と思ったらマネキンだった」
「…………」
「その前は……」
「もういいわ……」
奈美香は頭が痛くなってきた。これほど無意味な悪戯に熱心な人種を奈美香は見たことがなかった。油断してはいられないとつくづく思った。
「あ、デザート」
猪狩の声に反応して彼の視線を追うと、柏田がデザートを運んできた。
「やった!」小さくガッツポーズ。
奈美香は数種類あるデザートの中からモンブランを選んだ。そして、嬉しそうに口へ運ぶ。
「!!!」
奈美香は急に声にならない声を上げて暴れだした。食堂にいた皆が驚いて、彼女に視線が集まる。あまりに突然だったので声を失ってしまったが、数秒後には教授が大声で笑い出した。
「二年連続で木村君の学生か! ツキがないな、木村君!」
「ツキがないのは僕じゃないですけどね」
木村は眉間にしわを寄せた。奈美香が後になってどんな賠償を求めるのか不安で仕方がなかった。
「お、うまい」
猪狩はプリンを食べて呟いた。