一章 gloomyな招待
1、
矢式奈美香はO大の1号館の一室にいた。1号館は教員達の研究棟になっており、学生は滅多に行く事はない。その1号館になぜ彼女がいるのかというと、もちろん教員に呼ばれたからである。
彼女が今いるのは360号室、木村良知准教授の研究室である。
「ねえ、ちょっと汚すぎるんじゃない?」奈美香が眉間にしわを寄せる。
部屋の中は、カップ麺や弁当の容器、コーヒーの空き缶などが散乱しており、本棚があるにも関わらず、本は床に山積みにされていた。まさに人工物のジャングルである。
椅子の上にも物が置いてあるので、木村は即席で奈美香の居場所を確保する。
「いやあ、なかなか片付ける暇がなくてさ」木村は寝癖頭を掻きながら言う。まさかこの頭で講義に行くつもりだろうか。
「片付ける以前に、普通はここまで散らからないわよ」呆れたように奈美香は言い返す。
明らかに教員に対する言葉ではない。というのも彼らは従兄妹同士である。歳は十ほど木村の方が上だが、彼が面倒見の良い従兄だったかというと、現状を見てわかるとおりである。
「でもさあ……まあいいや。今度、片付けアルゴリズムでも作ろうかな」
「そんなもの作ったって結局片付けるのは自分でしょ? ロボットがやってくれるなら別だけど」嫌みったらしく言ってみる。「効率的な手順がわかったってきっと片付けないわよ」
「う……」木村は言葉に詰まる。「てかさあ、奈美香、何しに来たの?」
奈美香はため息をつく。「何って、良兄が呼んだんでしょ!」
「え?」木村は目を丸くする。「そうだっけ?……ああ! 思い出した」
「忘れるような事なら帰るわよ」すぐさま奈美香は踵を返す。
「ちょっと待った! 部屋の話になって忘れただけでかなり重要な事だ!」木村は右腕を前に突き出してストップのポーズをとった。
「何?」奈美香は思いっきり嫌そうな顔をしてみた。そもそも、あの程度の会話で忘れる事が本当に重要なのだろうか。
「そんな嫌そうな顔するなよ。今週の土日、暇?」
「土日? まあ、暇だけど」
「佐加田教授のパーティーがあるんだけど、来ない?」
「佐加田教授? 誰それ?」奈美香は首を傾げる。
「ああ、知らないか。奈美香にとっては他学科の先生だからな。ただの大学教授のくせにやたら金持ちでね。なんかすごい家系らしいんだ。で、毎年パーティーを開いているわけ。今年なんか新しく別荘建てたりしてさ。で、それに呼ばれたって事」
「なるほど」奈美香は頷く。
「来てくれる?」
「嫌よ」奈美香はきっぱりと言う。
「えー」木村は小学生のような声を出す。
「だって、誰かを連れて行きたいって事は一人じゃ行きたくないって事でしょ? で、私に頼るって事はどうせ、ゼミ生には断られたんでしょ? ってことはその佐加田って教授はろくな人じゃない」
「う……鋭いね。けど、ろくな人じゃないってのは言いすぎだよ。ちょっと変わってるっていうか、まあ、去年は今の四年生を連れて行って……評判は良くなかったね」木村は苦笑いする。「それが三年生にも伝わって、全滅って訳。けど面白い人だよ、教授は。確かに一人で行くのはちょっと……。ああ、駄目だ。弁護できない。とにかく来てくれよ。一人じゃ、きついんだって」すがるような目で奈美香を見つめる。
「去年はどんなだったの?」
「デザートがロシアンルーレットになってたんだよ。普通、これって罰ゲームに使うよね……。どっちかがワサビ入りです、みたいなさ。で、緊張感を楽しむっていうか。けど何も言わないから、無警戒で食べたうちのゼミ生が……」木村の表情が痛々しい。いわゆる苦虫を噛み潰したような顔である。けど、ところで苦虫って何だろう。食べたら苦い虫? 普通虫なんて食べないし……。誰か食べた事があるのだろうか。おっと、思考が逸れた。
「断ればいいじゃない。なんで、行かなきゃいけないのよ?」
「他の人は断ったりしているんだけど、俺は学生のときから佐加田ゼミで、大学に残ってからもいろいろとお世話になっているから……」
「義理深いのね。いってらっしゃい」奈美香はなんとなく微笑んでみる。ついでに手も振ってみる。
「そんなあ、頼むよ。一人で来いとは言わないからさあ。今度、飯おごってやるよ」
奈美香は呆れてため息をついた。それほど行きたくないのならば行かなければいいのに、と思う。
「回らないお寿司ね」特別、寿司が好きなわけではなかったが、高そうなものをイメージして言ってみた。
「……いいよ」
「そう、じゃあそういうことで。誰を誘おうかしら」
「頼むよ。あ、俺はこれから講義だから」そう言って、散らかった机からノートパソコンを取り出した、いや、掘り出すという表現の方が正しい。「じゃあ」
木村は出て行った。そして奈美香は呟いた。
「結局、寝癖のまま行ったわね」
2、
O大の正門から講義棟までの通路の脇には桜が数本咲いている。緑色の木々の中で鮮やか過ぎるピンクがその存在を主張している。桜とは不思議なもので隣のS市は一週間前に満開を迎えたがO市では今が見ごろである。「桜前線北上」なんて言葉があるが、S市とO市は緯度的には変わらないはず。この一週間の時差は何なのだろう。
木村の研究室を出た奈美香はその桜の下を通りながら誰を誘おうか考えていた。いつもの四人で行ってもいいが、単なる痛み分けのようで嫌だった。なぜ引き受けてしまったのだろう。しかし、後悔先に立たず、である。
怜奈は、可哀想かもしれない。前評判が良くないのに、連れて行くのは気が引ける。
そういう意味で藤井は適任かもしれない、と言ったら人権侵害だろうか。だがむしろ彼と二人でいる方がしんどい。これも人権侵害だろうか。別に二人じゃなくても良いが三人なら四人でも一緒ではないか。
やはり、猪狩が無難だろうか。と考えてどのあたりが「やはり」なのだろうという疑問。しかし、どうでもよいので中止。とにかく、誘う事さえできれば、あとは文句を言わないだろう。問題はどうやって誘うかだ。とりあえず、猪狩に電話をかけてみる。結局、直球勝負である。
「何?」数回の呼び出し音の後、猪狩が電話に出た。不機嫌そうに聞こえるがこれが電話での彼の平常である。面と向かって話しても微々たる差しか感じられないが。
何でも相手の顔が見えない状態での会話が嫌らしい。
「あんた、今週の土曜って暇?」
「いや」
「何かあるの?」
「いや」
「…………」無性に電話を切りたい。しかし頼み事をしているのはこちらなので我慢する。
「嘘だよ。けど面倒事はご免だ」見事に見抜かれている。
「そんなことないわよ! 良兄に佐加田教授のパーティーに誘われたから一緒に行かない?」
「ああ、佐加田教授ね……誰?」
「説明は面倒だから。で、来るの? 来ないの? てか来なさい!」自分で言っておいて何だが、人に物を頼む態度ではないと思う。
「いいよ」
「え?」予想外にあっさりした返事に思わず聞き返してしまう。
「あ、行かない方がいい?」
「いや、そんなことない! じゃあ、詳しい事はまた教えるから。じゃ」そう言って電話を切る。
さて、意外と簡単に事が進んだ。あとはどうやって当日を乗り切るかだ。デザートは猪狩に食べさせようか。