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最も相応(ふさわ)しい者

星の光がまだ淡く残る早朝、シャルヴァン公爵家の家紋を刻んだ書状を携えた使者が、静かにラモット伯爵家の門をくぐった。


朝食室へ向かっていたアリシアは、廊下の向こうから足早に駆け寄ってくるミーナの声で、行き先を変えることになる。


「お嬢さま、旦那さまがお呼びです。至急、書斎へ向かってください」


(書斎…?話があるなら朝食の席でいいのに…)


不思議に思いながら、書斎の扉を開けると、父に加え、普段この部屋に来ることのない母までが席についていた。


母には、戸惑いと、心配が浮かんで見える。

困惑顔の父の前には、一通の封書が置かれている。


アリシアが着席すると、父親は重い口を開いた。

「……シャルヴァン公爵家のご令息とは、いつから知り合いだった?」


「……え?」


(シャルヴァン公爵家??)


父の言葉の意味がすぐに呑み込めず、思考が宙に浮いた。


「面識はないのか?」


はっと我に返り、記憶の糸を必死でたぐり寄せる。


「…あ、そう言えば…、先月の公爵家の舞踏会で、一度だけ、お目にかかりました」


アリシアに言い寄るジュリアンを、テオドールが制してくれた。


そう、それだけ。


父は、アリシアの前に封書を差し出した。

厚みのある上質な紙に、深紅の封蝋が重く光る。中央には、シャルヴァン公爵家の荘厳な紋章。


アリシアは恐る恐るそれを手に取り、中身を確かめる。

文面を追ううちに、手が震え、体中から熱が引いていった。



『ラモット伯爵令嬢アリシア殿に対し、我が嫡男テオドールとの婚約を、正式にご検討いただきたく…』



「…どうして?」


思わずこぼれた声に、父と母は小さく首を振った。


「わしにも、さっぱり見当がつかん。

 我家と婚姻関係を結んで、シャルヴァン家に、何の得があるというのか…」


アリシアは手元の文面をもう一度しっかりと読み返すと、ぎゅっとまぶたを閉じた。


(……断れるはずがないわ)


この申し出は、個人的なものではない。

シャルヴァン公爵家は、王国でも名の知れた由緒ある家柄。

王族とも近しく、社交界への影響力は計り知れない。


ラモット家の立場を思えば、背を向ける選択など、初めからないに等しい。


(落ち着いて……)

アリシアは、胸の奥で小さくつぶやきながら、息を吸い込んだ。


(進める道は、ひとつだけ)

もう一度、深く呼吸を整える。


「お父様、お母様」


アリシアは、笑顔がぎこちなくならないように、心を込めて表情を整えた。


「こんな光栄なお話を頂けるなんて、驚きました。まずは先方のご意向どおり、お会いしてみませんか?

 あちらにも、何かお考えがあるのでしょう」


父は、ゆっくりとうなずき、背筋を正す。

母は、ふっと口元をほころばせた。


「…そうだな。まずは話をしよう。数日中に伺うと返事をしておく」


アリシアは頷くと、努めて明るい声を出した。


「…それじゃあ、朝食にしませんか?冷めてしまったら、もったいないです」


母は眩しそうにアリシアを見ると、「そうね」と温かな声で言った。


*****


面会の場として選ばれたのは、公爵家の本邸ではなく、街はずれにひっそりと構えられた別邸だった。


人目を避けるためなのだろう――婚約話を水面下で進めたいという意図が、言葉にせずとも伝わってくる。


公爵家の別邸は、細部にまで丁寧な手が行き届いた、上品なたたずまいだった。


門をくぐると、ひときわ静かな空間に包まれる。


アリシアは、父と母と共に応接間へと案内され、椅子に腰を下ろした。

対面に座るのは、公爵夫妻と、テオドール。


一通りの挨拶が交わされると、緊張をほぐすように、家の歴史や季節の話題など、穏やかな言葉が行き交い始める。


テオドールの声は落ち着いていて、誠実さが感じられた。

時折、アリシアを観察するように見ることもあったけれど、居心地の悪さはなかった。


応接間でのやりとりが一段落したころ、テオドールが静かに席を立ち、アリシアに手を差し出した。


「よろしければ、温室をご案内します」



****



霜に縁どられた葉牡丹や寒椿の赤が冷気に彩りを添える小径を抜けた先に、ガラス張りの小さな温室があった。


温室の扉を開けると、青みを帯びた草花や澄んだ柑橘の香りを含んだ温かな空気が体を包む。


「突然のことで、驚いたろう?」


テオドールの問いかけに、アリシアは、戸惑いながらも穏やかなトーンで返す。


「ええ。まさか、公爵家からこのようなお話しが頂けるとは思いませんでした」


彼は黙ってうなずくと、枝に実っていた鮮やかな橙色の丸い果実に手を伸ばした。

軽くひねると、熟れた果実が枝からすっと外れる。


「オレンジを、食べたことは?」


「いえ、ありません。香りを味わう程度ならありますけど…」


テオドールは、それを控えていた使用人に手渡すと、アリシアの手を取り歩き出す。


「この温室は、先代が南方の果実を好んだ名残でね。今は趣味程度の規模だ」


彼の所作には、気品と優雅さが漂う。

貴族としての教養と礼節を身につけた紳士のそれであり、アリシアに対しても細やかな気遣いが感じられた。


温室内を二人、ゆっくりとした足取りで歩く。


色とりどりの花々に彩られた温室の一角で、白く小さな花々が群れて咲く姿が、アリシアの目を奪った。


歩みのスピードが落ちた彼女に気づき、彼は足を止めた。


「あの花が気に入ったのか?」


「ええ。他の花の引立役だと思っていたカスミ草ですが、こうして群れて咲くと、それだけでとても魅力的だと思って…」


「……そうか」


しばらく二人でかすみ草をながめた。


アリシアが満足したように、かすみ草からテオドールへと視線を移す。


彼女が微笑むと、彼も微笑んだ。


「……行こう」



やがて温室の奥にある、ささやかなティースペースにたどり着いた。


ガラス越しに射す光が、静かにテーブルを照らしていた。

その上には、美しく切り分けられたオレンジと、アリシアの大好きなホットチョコレートが並んでいる。


(ホットチョコレート?…まさか、知っていて?)


思わずテオドールに視線を向けると、彼は少し首を傾ける。


(……偶然、よね?)


席に着くと、アリシアは、オレンジをひと切れ口に運んだ。

果汁が舌の上で弾け、甘さと酸味が広がっていく。


「美味しい…」


零れ落ちた言葉に、彼の顔がほころんだ。


それがあまりにも美しくて厳かで、アリシアは呼吸も忘れ、見とれていた。


その眩しくも素敵な男性は、家柄も人柄も何もかもが、自分には過ぎた相手のはずたった。


オレンジのほろ苦さが、あとから追いかけてきて、打ち消しても打ち消しても消えない不安を膨らましていく。


アリシアは、胸の奥がきゅうっと縮むのを感じながら、それでも抗えない衝動に背を押されるように、口を開いた。


「テオドール様、1つだけ失礼をお許し頂けますか?」


「……なんだ?」


子犬にでも話しかけるような、優しい目を向けてくる彼に、アリシアはためらいを感じながらも続ける。


「……どうして、私だったんですか」


彼の瞳がかすかに揺れ、目線が落ちる。

先ほどの穏やかな光は消え、何も映さない無機質な色に変わった。


「君が…、公爵家の婚約者として、最もふさわしいと判断したからだ」


低く響く声に、口の中のオレンジのほろ苦さがじわりと広がる。

耐えきれず、アリシアはテーブルの端にあったクリスタルグラスに手を伸ばした。

水を一口含み、ゆっくり喉を通すと、オレンジの余韻が静かに洗い流されていく。


急に、この婚約劇が遠い他人事のように感じられた。


「そうですか。ありがとうございます」


アリシアは両手でカップを包み込み、湯気の残るホットチョコレートを口に運んだ。


ほろ苦さを包み込むような濃厚な甘さが、心の隙間を静かに満たしていった。



*****



数日後——


シャルヴァン公爵家とラモット伯爵家の婚約が公に発表された。


社交界は瞬く間にその話題で持ちきりとなり、騒然となった。



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