完璧な令嬢 (テオドール視点)
公爵家の次期当主の婚約者が、絵描きと駆け落ちした――
本来、あってはならない出来事だった。
この一件が公になれば、シャルヴァン家の名誉は失墜する。
その前に、すべては密やかに、迅速に処理されなければならなかった。
婚約破棄の理由は「令嬢側の健康上の事情」とされ、体裁は整えられた。
相手方の家からは、謝罪の意を込めて、鉱山ひとつが内々に譲渡された。
公爵家は結果的に莫大な利益を得ることになったが、
その裏で、テオドールは煩雑な処理に奔走し、心身ともに消耗することになった。
(あんな騒ぎは、二度とごめんだ)
それでも、テオドール・ド・シャルヴァンは、公爵家の嫡男として、次の婚約者を選ばねばならなかった。
名誉に傷がついた今、シャルヴァン家は、その傷を埋めるかのように、より『完璧な令嬢』を求めていた。
十分な家柄の娘であることはもちろん、立ち居振る舞い、話し方、笑みの角度に至るまで――貴族として『完璧に仕上がった者』。
そうして、公爵家の威信をかけて催されたのが、今宵の舞踏会だった。
事情を知る者たちの間には、緊張と期待が入り混じった、独特の空気が漂う。
令嬢たちは特注のドレスに身を包み、上流階級らしい笑みを顔に貼りつけている。
その笑顔の下に、それぞれの思惑や不安を隠しながら。
舞踏会が始まる少し前、テオドールは、母親から一人の令嬢について、耳打ちされた。
「控室でね、ドレスが他の令嬢とかぶったことに気づいて、何も言わずに衣装を変えた娘がいたの。あのドレス、有名なデザイナーの特注品だったのに」
そう語ると、母はどこか満足げに目を細めた。
「あの子、悪くないわ。少し気にしてごらんなさい。ラモット伯爵家のアリシアよ」
(悪くない、ね……)
テオドールは、ぼんやりとその名前を反芻しながら、舞踏会の幕が上がるのを待っていた。
****
舞踏会が始まってしばらく経ったころ、耳打ちしてきた従者の声に、テオドールは視線を扉の方へと向けた。
「アリシア・ド・ラモット様が到着なさいました」
姿を現した令嬢は、夜明けの空を閉じ込めたような、淡いペールブルーのドレスをまとっていた。
銀灰がかったブロンドの髪は、美しく編み上げられ、肩にかかる薄絹のケープが歩みに合わせてそっと揺れる。
すっと伸びた背筋、陶器のような肌、そしてブルーグリーンの瞳。華美な装いではないのに、なぜか目を離せなかった。
(……なるほど。確かに、悪くない)
アリシアは、数人の令嬢たちに囲まれながらも、穏やかな微笑を絶やさず、その場に自然と溶け込んでいた。
必要以上に目立つこともなく、けれど存在感を隠すでもない。
(控室で無言で身を引いたと思えば……随分と器用だな)
テオドールは、人垣の向こうに目を走らせた。
ほどなく、胸元に鮮やかなスカーフをあしらった男の姿を見つける。
(いたな)
グラスを音もなく置き、その男に忍び寄ると、低く声をかけた。
「……ジュリアン、少し時間をくれないか」
ジュリアン・ド・モンリヴォーは振り返り、片眉をわずかに上げて微笑んだ。
「珍しいね。君が僕に頼みごとなんて」
「君が適任なんだ」
そう言って、テオドールはアリシアのいる方へ、ちらりと視線を送る。
「ラモット嬢? 候補にいたっけ?」
ジュリアンもその先を目で追い、不思議そうに首を傾げた。
「彼女を、少し試してほしい」
「え?本気で言ってるの?」
ジュリアンは何度か瞬きを繰り返し、テオドールの顔を見返す。
「ああ」
「そういうの、あまり好みじゃないんだけどね」
ジュリアンは困ったように笑い、テオドールに訴えかけるような視線を投げた。
けれど、テオドールはじっと彼を見据えていた。
「……まあ、今の君の立場を思えば、仕方ないか。今回だけだよ」
ジュリアンは軽く片手を上げ、降参の仕草をしてみせた。
「恩に着る」
小さく頷くと、テオドールは今夜の役目を果たすべく、予定された候補者たちのもとへと向かった。
*****
テオドールが二人目の令嬢とステップを踏んでいると、アリシアとジュリアンのダンス姿が見えた。
彼女のドレスが音に合わせて揺れるたびに、ジュリアンの好奇心がぐんぐん育っていくのが、遠目でもわかった。
曲が終わり、ダンス相手の令嬢を丁寧に席へと送り届ける。
その合間にも、ジュリアンとアリシアの姿が視界の端にちらついていた。
二人はまだ、手を取ったまま何かを語らっている。
ジュリアンが距離を詰めれば、アリシアはそれと悟らせぬよう、自然な所作で間合いを保つ。
そしてまた、ジュリアンが軽やかに一歩踏み込む――その繰り返し。
(……気に入ったか。だが、やりすぎだ)
テオドールは短く息を吐くと、まっすぐ二人のもとへ歩み寄った。
「ジュリアン。その辺にしておけ」
テオドールの声に、ふたりが同時に振り返る。
アリシアの表情に動揺はなく、静かなまなざしがこちらを見返していた。
「連れが、失礼をした」
淡々とそう告げると、テオドールはジュリアンの肩に手を置き、ためらいなくその身を方向づける。
「また、お会いできますように」
ジュリアンは名残惜しげに微笑み、軽く手を振ってみせた。
アリシアは落ち着いた動きで一礼し、何事もなかったように令嬢たちの輪へと戻っていった。
テオドールはジュリアンを人垣の外へと連れ出した。
しばし無言のまま歩いたあと、ジュリアンが小さく笑いながら口を開く。
「一ヶ月くれない?」
ジュリアンはにやりと笑って、視線をアリシアの方へとやった。
「……好きにしろ。ただし、深入りはするな」
テオドールは、乾いた声で返した。