公爵家の婚約者探し
テオドール・ド・シャルヴァンには、以前、別の婚約者がいた。
エルバン侯爵家の長女で、恐ろしい程卓越したピアノの腕前をもつ、愛らしい令嬢。
誰もが順当な結びつきだと思っていた——少なくとも、表向きには。
けれど、ほどなくして「令嬢が体調を崩した」ことを理由に、婚約はいつの間にか解消されていた。
公爵家の顔を立てるように取り繕われたが、舞台裏に何かがあったことは、察っせられることだった。
そして、冷たい風が落ち葉を舞わせる秋の終わりーーシャルヴァン公爵家は、三年ぶりに夜会を開いた。
建前は新たな交友の場の提供。
けれど本当のところは、テオドールの次期婚約者を慎重に見定めるための『品評会』だった。
アリシアがテオドールに初めて会ったのは、今から半年ほど前の、まさにその日だった。
アリシアにとっては、デビュタントを終えて初めての本格的な社交の場で、その夜のことは今でもはっきりと覚えている。
あの夜は、夜会に入る前の、小さなアクシデントから始まった。
*****
アリシアが控室で頬に薄く紅をのせていると、鏡越しに、自分と驚くほどよく似たドレスに身を包んだ若い令嬢の姿が見えた。
(あれ…?)
白い生地に、淡い藤色の刺繍。
すそに向かって緩やかに広がる、花びらの重なりのようなカッティング。
胸元には、銀糸で描かれた細やかな唐草模様が光を受けてゆらめいていた。
似ている、というには気の毒なくらい、アリシアのドレスと同じようなデザインだった。
素材の質やレースの入り方など、細部には違いがあるけれど、遠目から見れば、双子のように映るかもしれない。
数歩後ろの壁際では、それに気づいた付き添いの夫人たちが、ひそひそ声を交わし始める。
(……まずいな…)
たしか、彼女は先日のデビュタントで一緒になった子爵家の令嬢だった。
連れている侍女は一人だけで、荷物も多くはない。
きっと、替えのドレスは持っていないだろう。
アリシアは、侍女のミーナに向かって
「どうやら行き違いがあったみたい、青のドレスに変えましょう」
と、小声で告げると、周囲の視線を避けるように更衣スペースへ移動した。
更衣スペースでは、ミーナが『せっかくの特注したドレスだったのに』と不満をこぼしていたが、アリシアは気に留めなかった。
(無駄な争いは、損なだけだわ…)
******
支度を終えたアリシアが広間に足を踏み入れると、デビュタントとは違う、活気が満ちあふれ、華やかな笑い声と賑やかなざわめきが交錯する世界が、目の前に広がった。
アリシアは、柔らかな笑みとともに最初の挨拶を交わすと、舞踏会のリズムに身を委ねるように、近くにいた令嬢たちの輪の中へと加わった。
「……あら、見て。テオドール様が、レオノーラ様をダンスにお誘いになったわ」
ひとりの令嬢がそう囁くと、その周囲にいた数人の視線が、フロアの中央に集まった。
テオドールとレオノーラが優雅に踊り始める。
「やっぱりレオノーラ様なのね。年齢的にも家柄的にも申し分ないし」
「それはそうよ。コルヴェール侯爵家のご令嬢なんですもの。周囲の期待だって大きいわ」
「それにしてもレオノーラ様、今日は、いつにも増して気合いが入ってるわね」
「ホント。いつもお化粧は念入りだけど、今日はひときわ濃いわ。舞踏会じゃなくて舞台に立つのかと思うくらい」
「あそこまで塗ると、もはや気合いというより執念ね。この機会を逃すものかって」
令嬢たちの嫉妬まじりの忍び笑いを横目に、アリシアはテオドールを見ていた。
(あれが……テオドール・ド・シャルヴァン)
淡い栗色の髪と澄んだ青い瞳、高身長で細身ながら引き締まった体つきが、凛とした雰囲気を漂わせている。
優雅な所作の奥に、どこか温度のない視線。
テオドールが見せるのは、まるで「そうあるべき姿」をなぞるような、完成された貴族の顔だった。
(わたしの人生で、関わることのない人ね)
そんなことを考えていると、アメリアの前に一人の男性が立った。
令嬢たちの何人かは、ダンスへ誘われていたし、アリシアにもそういう場面が来ることは極自然なことだった。
が、その人物が異質だった。
ジュリアン・ド・モンリヴォー――
モンリヴォー伯爵家の次男であり、『バイオリンの至宝』と謳われる国内外で人気のヴァイオリニスト。
舞台での華やかさに加え、洗練された演奏、所作や話術にも雅があると、貴族社会で大きな評価を得ている。
だが、その名は、恋の噂とともに、社交界をにぎわせる常連でもあった。
「ジュリアン・ド・モンリヴォーと申します。アリシア様、よろしければ、次の一曲をご一緒いただけませんか?」
ジュリアンが胸に手を当て、軽く頭を下げる。
扇を止める手。
笑い声が一拍、遅れてこぼれる。
ひそやかに交わされる視線の奥に、驚きと戸惑い、そして嫉妬が滲む。
「アリシア嬢を……?」
「ジュリアン様がどうして……」
令嬢たちの輪に、波紋のようなさざめきが広がっていく。
(なぜ、この人が…)
アリシアは煩わしさを覚えつつも、礼を欠くわけにもいかず、微笑した。
「ええ。よろしくお願いいたします、ジュリアン様」
ジュリアンが差し出した手を取り、舞踏フロアに向かう。
音楽が再び流れ出し、『意外な組み合わせ』の二人がフロアに現れると、幾人かが興味を隠せない視線を彼らに向けた。
アリシアは目の前の紳士を見やった。
(なんで、私を誘ったんだろう?)
視線の奥に警戒をにじませながら、ステップを踏みつづける。
ジュリアンはあくまで柔らかな笑みを絶やさず、まるでこちらの探りを楽しんでいるかのようだった。
音楽が余韻を残して消えゆくと、二人のステップも止まった。
「素敵な時間をありがとうございました」
アリシアが礼儀正しく微笑むと、ジュリアンも人懐っこい笑顔をみせる。
「こちらこそ、予想よりもずっと愉快な時間でしたよ?レディ」
ジュリアンは、悪戯っぽい表情でアリシアの顔をのぞき込み、言葉を続ける。
「このまま別れるのは、少し惜しいですね。
もう少しだけ、言葉を交わせたらと思うのですが——どうです?」
アリシアはそんなジュリアンに悪い気はしなかったけれど、首を横に小さく振る。
「そう言って頂けて光栄です。でも、これ以上のご厚意には…」
アリシアの言葉が終わらないうちに、ジュリアンは、すっと顔を寄せ、耳元で囁いた。
「けれど、本当は……どうして僕に誘われたのか、気になっているのでしょう?」
ジュリアンの距離の詰め方に、少し戸惑ったけれど、すぐに落ち着き、にこやかに言った。
「そうですね。でも……知らなくてもいいことって、世の中にはたくさんあると聞きますので」
「あはは。ますます愉快だ」
ジュリアンは、子供のように笑いだした。
「では、僕の好奇心は、お預けというわけですね」
どこか名残惜しげに、視線を逸らさずに続ける。
「けれど……謎めいたままの方が、余計に心を惹かれてしまうのをご存じですか?」
冗談とも本気ともつかない声色が、アリシアを困惑させる。
(しつこいな…)
——そのときだった。
「ジュリアン。その辺にしておけ」
よく通る低い声に、ふたりが同時に振り返る。
そこには、眉間にしわを寄せたテオドール・シャルヴァンが立っていた。
近くで見ると、さらに彼の貴族然とした空気が感じられる。
「連れが、失礼をした」
アリシアにそう言って、テオドールは迷いなくジュリアンの肩に手を置き、ぐっと方向を変えさせる。
「あーあ、残念だな。もう少し一緒にいたかったのに」
ジュリアンは肩をすくめ、アリシアに軽く手を振る。
「また、お会いできますように」
名残惜しさを含んだ目元を残しつつ、素直にテオドールに従い、その場を去っていった。
アリシアはほっとして落ち着いた所作でお辞儀を返し、令嬢たちの輪の中へ戻っていった。