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不機嫌な婚約者

窓から柔らかな午後の陽光が差し込むサロンのソファに、アリシアは身をゆだねていた。


テオドールがこの邸を訪れるときは、いつも決まった時刻に現れ、決まった時刻に去っていく。


本来なら、客人を先にサロンへ案内するのが礼儀だが、今日は足への負担を考え、アリシアが先に部屋に入り、彼の訪れを待つことにした。


「お嬢様、そろそろですよ」


促され、テーブルセットまで移動すると、ミーナがドレスの裾に隠れるほど控えめな高さのヒールの靴を差し出す。靴には、薬草入りのパッドも仕込まれていた。


アリシアは椅子に腰掛け、スリッパからその靴に履き替える。

「……っ」

かすかな痛みが走り、思わず吐息が漏れた。


痛むのはわかっていたけれど、ヒールのない靴で『公爵家嫡男テオドール』を迎えるほどの勇気はなかった。


息を整え、テーブルに目を落とす。

特別なお客様用のティーセット、春の焼き菓子。

一つ一つを確かめるように視線を滑らせる。


廊下の奥から、足音が近づいてきた。

アリシアは背筋を伸ばし、扉を真正面から見据えた。


「失礼いたします。テオドール様をお連れしました」

ノックと同時に扉が開き、執事に先導されてテオドールが姿を現した。

彼は、部屋の中にアリシアを認めると、眉をひそめて首をかしげる。


「ありがとう、もう下がっていいわ」

声をかけると、執事はミーナを連れて静かに廊下へ出た。


扉が閉まると、部屋にはふっと静けさが戻る。

重厚な置き時計の音だけが、低く澄んだリズムで響いた。


テオドールは、アリシアの正面に腰を下すと、わざとらしく椅子の背に音を立てて寄りかかった。

「……珍しいな。いつもは『お待たせしました』のほうだったろう」

棘のある声色と言い回し、少しあがった眉毛と無機質な瞳。


今日の彼は、誰の目にもわかるほど不機嫌だった。


アリシアはテオドールに微笑むと、ティーポットを手に取った。

紅茶の香りが、ふわりと部屋に広がる。


「昨日の大会でお疲れかと思って、カモミールを用意したの」

アリシアは紅茶を注ぎ終えると、テオドールの前に慎重にカップを置いた。


テオドールは、カップに視線を落とし、言葉もなく手を伸ばす。

そして持ち手に手をかけると、ゆっくりとカップを傾けて、中の液面をくるくると静かに揺らした。


「休息が必要なのは、君の方だったと思うが…違うか?」

皮肉めいて毒っぽい、テオドールらしくない口調。


(昨日の事が、よっぽど気に入らなかったのね)


「そうね。昨日はごめんなさい。体調には気をつけるわ」


テオドールはようやくアリシアに目を向け、冷ややかに微笑んだ。


「よく眠れたか?」


「ええ、ありがとう」


テオドールの瞳を見て、ふと、ミーナの言葉を思い出す。

『テオドール様が、眠ってしまわれたお嬢様を抱きかかえて、お部屋までお運びになったのですよ!?』

『眠っているお嬢様をじっと見つめ、愛おしそうに額のあたりを――こう、2回、優しく撫でられて…』


アリシアは、体からこみあげる熱を感じ、頬が紅潮するのがわかった。

テオドールに知られたくなくて、それを押し込むように唇を結び、下を向いた。


(お礼を言うべきよね…)


チラリと視線を向けると、テオドールは表情ひとつ変えずに座っていた。


テオドールから発せられる冷たい圧力が、周りの空気を締めつける。

冷えきった湖面のような静けさに、アリシアは血の気がひくような気持ちになった。


「ジュール・モレルとは、知りあいか?」


思いがけない名前が彼の口からこぼれ、心臓が鳴った。


「二度もエスコートを受けたそうじゃないか」


軽い侮蔑のこもった声色だった。


「それは……」


(貴方がわたしを、置いていったからでしょう?)

心の中でそう呟いた。


けれど、それを口に出せば、彼の機嫌はさらに悪くなるだろう。


「…軽率だったわ。ごめんなさい」


謝罪はテオドールの表情を変えるほどの力を持たず、一口もつけられていない紅茶の揺れる液面が、彼の内なる苛立ちを映しているようだった。


(この人は、いったい何にそんなに苛立っているのだろう)


ーーーー嫉妬?


(まさか……)


テオドール・ド・シャルヴァンが?


馬場に向かう小道で、「友人が困っているから一人で行け」と、アリシアを一人道に残し、走り去った彼の背中を思い出す。


(違う……)


挨拶の角度、服の選び方、言葉遣いーー常に、貴族としての美しさを常に守っているテオドールの姿が浮かぶ。


――ーー矜持、だ。


婚約者であるアリシアが、公の場で別の男と共にいた。それが、テオドールの『男として』の、『貴族として』の、誇りを傷つけたのだろう。


(自分でトラブルの種を蒔いておいて、予想外の果実が実ったら怒るなんて、なんて理不尽な人なの)


心の中で抗議する。


けれど、今はこの場を治める最善の判断をしなくてはならない。


「貴方の名誉を傷つけないよう、振る舞いに気をつけるわ」


できる限り穏やかに、テオドールを刺激しないよう淑やかに、そう言った。


テオドールはカップを口元に運び、ようやく一口だけ紅茶を含むと、ふっと、自嘲するようなため息をもらした。


「わかった」


テオドールが、何かに屈服でもしたかのように、気の抜けた苦笑を浮かべる。


「君も疲れているだろう?今日はこれで、失礼するよ」


そう言うと、彼は立ち上がり、アリシアの前に立った。


「昨日、エスコートを放棄した代わりに、部屋まで送らせてくれないか?」


彼の手がアリシアへ差し伸べられる。


(やっぱり…、わざと私を一人にしたのね…)


「大丈夫よ。気持ちだけ受け取っておくわ」


それでも、テオドールは、強い意志を持った瞳でアリシアを見据え、手を引く気配を見せなかった。


アリシアは、観念するように小さく息を吐いた。


彼の手の平に、手を重ねる。


触れた指先から、ぬくもりが伝わってくる。


一歩、二歩、進むうちに歩みが緩くなる。


三歩進んだところで、テオドールは急に足を止めた。


アリシアが不思議そうに彼を見上げると、彼はエスコートしていた手を外した。


そして、入口の扉を全開にすると、アリシアの腰に腕をまわし、軽々とその身体を抱き上げた。


「テオドール!?」


驚きの声を上げた彼女に、テオドールは、低く短く告げる。


「……黙っていろ」


その様子を目の当たりにした執事は、目と口を大きく開き、言葉を失う。

一方、ミーナは口元を手で押さえながらも、頬を紅潮させて目を輝かせていた。


アリシアは顔から火が出そうだったが、落ちるが怖くて、彼の胸元にすがりついていた。


テオドールは、屋敷の廊下を颯爽と通り抜けていく。


その後ろには、いかにも乙女心をこじらせた侍女ミーナが、足取り軽くついてくる。


やがてアリシアの部屋の前にたどり着くと、ミーナがすばやく扉を開ける。


中では数人の使用人が掃除をしていたが、テオドールの姿を見るなり、すぐさま礼をして部屋をあとにした。


テオドールはアリシアをベッドへと運び、丁寧に座らせると、しゃがみ込み、はぁーッと息を整えるように大きく吐いた。


息が少しあがり、額にはうっすらと汗が浮かんでいる。


つかの間ーー


「きゃっ…!」


テオドールが、今度はアリシアのスカートの裾を持ち上げた。


彼の視線が、アリシアの左足に巻かれた包帯に留まる。


彼はその足を支えるように、手を添え、アリシアの顔を見上げた。


アリシアは居心地の悪さを感じて、目をそらした。


「……そういうことか」


テオドールは、そっとアリシアの足を靴の上に戻すと、扉のほうを振り返った。


「ミーナ」


呼ばれたミーナがすぐに現れ、テオドールの指示で、部屋用のスリッパを取りに向かう。

やがて戻ってきた彼女は、テオドールの横にスリッパを置いて下がった。


テオドールは黙ったままそれを手に取り、アリシアの足元に跪くと、片足ずつ履かせる。


その額には、汗が一筋、こめかみを伝っていた。


「……テオドール」


アリシアはハンカチを持った手を伸ばす。


ハンカチの柔らかな布が、彼の額にふれた。


汗を拭う彼女の手を、テオドールが優しくつかむと、ふたりの視線は、自然に重なっていった。


「昨日……君は、君の最善を尽くした。そうだろう?」


落ち着いた低い声だった。

責めるような響きも、とがった怒りもない。


「……テオドール?」


アリシアが名を呼ぶと、彼は微かに目を伏せ、静かに言った。


「すまなかった」


そのまま彼は、つかんでいたアリシアの手をゆっくり持ち上げ、甲にそっと唇を寄せる。


テオドールの瞳から、安堵とも落胆ともつかない様子が感じられて、アリシアはどう受け止めていいのかわからなかった。

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