ピクニック
翌朝、アリシアがミーナと身支度を整えていると、部屋の扉が2回ノックされた。
ミーナが「はい」と返事をしながら扉へ向かい、外の誰かと小声でやり取りを交わす。
扉を閉めたミーナは、嬉々としてアリシアのもとへ戻ってきた。
「テオドール様から、本日、公爵家の中庭でピクニックを──とのお誘いがありました」
「テオドールから?」
「はい、公爵家からのご使者がお返事を待っておられます。どうされますか?」
期待に目を輝かせながら、ミーナが問いかける。
(昨日会ったばかりなのに……)
「伺うとお伝えしてくれる?」
「はいっ!」
返事を聞くなり、ミーナはスキップしそうな勢いで扉へ向かい、小さなやり取りを交わす。
「十一時ごろにお迎えにくるそうですよ」
手を胸の前で組み、夢見る乙女のような表情で、ミーナがうっとりと言った。
(相変わらず、楽しくて忙しそうね)
*****
階段のおどり場から、テオドールの姿が見えた。
ピクニック用のラフな装いのせいか、いつもより落ち着いて見える。
——そういえば、彼がよくする、つま先で床を鳴らす仕草がない。
アリシアの姿を見つけると、テオドールはまぶしそうに目を細めた。
その表情が、胸の奥をほんのり温める。
駆け寄りたい気持ちをなんとか抑えて、足早に階段を下りる。
でも、おりきっても足は止まらず、気づけば、そのまま彼の方へ向かっていた。
「こんにちは、アリシア」
真っ直ぐにアリシアを見つめる瞳は、紛れもなく彼女を映していた。
(今日の彼は、どうしてこんなに優しい瞳をしているんだろう)
「こんにちは、テオドール」
理由なんて、どうでもよかった。
ただ、いまの幸せな気持ちのまま、挨拶を返した。
*****
馬車の中、ふたりは、お互いの手を間に重ね、並んで座る。
窓の外を眺めながら、馬車の揺れに身をまかせる。
ときおり視線が合うと、静かに微笑みあった。
テオドールは何度か、何かを言いかけては、唇を閉じた。
(何か、伝えたいことがあるのね…)
アリシアは、彼の心が整うそのときを、待つことにした。
*****
公爵家の中庭に着くと、庭の中央に立つリンデンの木のもとへ案内された。
枝を大きく広げた木は、やわらかな木陰を作っていて、淡い花がほのかに甘い香りを運んでくる。
その先に、白い花々が風にそよいで波打っていた。
一面に広がり、咲き誇るかすみ草の花畑。
陽の光を受けてきらめくその光景に、アリシアは思わず息をのんだ。
「好きだったろう?」
隣でテオドールが言った。
「庭師に頼んで、育ててもらったんだ」
「ありがとうございます」
テオドールを見ると、いつになく柔らかな表情で、かすみ草畑を見つめている。
(この人は——この人なりに、私を大切に思っていたのかな……)
アリシアは、再び目の前に広がる、緑の絨毯に白いベールがかかった美しい景色を、満たされた気持ちで見つめた。
木漏れ日の下に敷かれたシートの上に、お弁当を挟んで座った。
テオドールは、ぱたりとシートに寝転び、こもれびを見上げながらぽつりと言った。
「ジュリアンに、キスされたそうだな」
思いがけない言葉に、アリシアは驚いて跳び上がりそうだった。
「…安心しろ、俺もだ」
そう付け加えたテオドールの不機嫌そうな顔に、アリシアは思わず吹き出してしまう。
「君は、そんなふうに笑うんだな」
「知りませんでしたか?」
「…ああ」
彼に何があったのかは、わからない。
けれど、これまでとは違う――私を真っ直ぐに見つめる瞳が、そこにある。
それだけで、十分だった。
人にはそれぞれ、自分だけで抱えている何かがある。
そして、ふとした拍子に、それを手放したり、変えたりするものだ。
アリシアがそうだったように
「君を不安にさせて、すまなかった」
テオドールはまっすぐに彼女をみつめ、言葉を選ぶように間を置いた。
「…今までのことを、うまく言葉にするのは難しい。けれど――」
テオドールの瞳には、等身大のアリシアが映しだされている。
「君を初めて見たときから、ずっと、惹かれていたんだ」
「テオドール……」
「キスしていいか? 婚約者さん」
アリシアは、潤んだ瞳で弱々しく頷いた。
「目を閉じろ」
唇がふれあい、そっと離れる。
アリシアは、彼の温もりをもう少し感じていたくて――
「…もう一度」
とすがるように囁いた。
テオドールはふっと笑い、優しく目を細める。
そして今度は、ぎゅっと彼女を抱きしめて、深く、長くキスをした。
それから、何度も、何度も。
まるで時間さえ忘れるように、飽きるまでキスを重ねた。
やがてふたりは、寄り添いながら、眠りに落ちる。
午後の散歩に出た公爵夫人が、眠るふたりを見つけて「まぁ」と嬉しそうに目を細めた。
ドレスの裾をひるがえし、スキップで屋敷へ向かう夫人を、執事が顔を青くして追いかけていった。
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