色眼鏡をはずしたら
書斎の椅子に身を沈め、テオドールは静かに天を仰いだ。
指先には、ジュリアンに掴みかかったときの感触がまだ残っている。
「…なんなんだ、あいつは」
舌打ち混じりに、ポケットから取り出したハンカチで唇を何度もぬぐった。
『道具の一つ』『景色の一部』――
アリシアが、そんなふうに感じていたなんて、思いもしなかった。
いつも彼女は、傍らで穏やかに微笑んでいたから。
それでも、自分の言動に思い当たる節があった。だからこそ、咄嗟に否定できなかった。
ジュリアンから、アリシアに口づけしたと聞かされたとき。
胸に湧いたのは――紛れもない、『嫉妬』だった。
(……認めるしかない。俺は彼女を愛している)
言葉にしてみると、不思議なほど自然に胸へと落ちてきた。
テオドールは苦笑しながら、椅子の背に頭をあずけた。
受け入れてみると、案外、視界はすっきりと晴れていた。
――『私は、あなたが好きなんです』
脳裏に浮かぶのは、眩しいほどに穏やかで、柔らかな、アリシアのまなざし。
内面から湧き上がるような深い、静謐な愛。
それに正面から向き合い、受け取ったのは、初めてのことだった。
春の陽だまりのように暖かくて、心地よくて、自分がそこへ溶けてしまうな錯覚さえ覚えた。
初めて会った頃のアリシアは、紛れもなく少女だった。
銀灰がかったブロンドの髪。白磁のように滑らかな肌。
淡いペールブルーのドレスが華奢な身体を優雅に包み、動くたびに薄絹のケープがふわりと揺れた。
…まるで、妖精にでも出くわしているような気分だった。
前婚約者――フローラが、駆け落ち相手の青年と向き合う姿を何度か見かけたことがある。
彼女はいつも、熱病に浮かされたような瞳で、その青年を見ていた。
恋とは、人の瞳をあんな色に染める物なのか、と、驚いた。
そして、アリシアとはじめてオペラに行った夜――
フローラがあの男に向けていたような瞳で、自分を見つめるアリシアがいた。
妖精のような彼女が、自分に向けて。
それがたまらなくて、なかば強引に唇を奪った。
彼女は嫌がる素振りも見せず、むしろ好意的に受け入れてくれた。
そのことに、また身震いした。
だが――
嵐の後、二ヶ月ぶりに再会した彼女の瞳からは、あの熱が消えていた。
何度、瞳を覗きこんでも、見つけられなかった。
彼女の熱病は、いつの間にか冷めてしまったのだと思った。
…だが、おそらく、それは違ったのだ。
あの無邪気で真っ直ぐな恋心は、マノンという教育係のもとで、少しずつ成熟した大人の形へと姿を変えていたのだろう。
それに気づかず、その『少女』ばかりを探していた。
――『誰を見ているんですか?』
あのときのアリシアの言葉の意味が、今ならわかる。
もしあの二ヶ月のあいだ、傍らで彼女の変化を見守れていたなら、何かが違っていたのかもしれない。
けれどそれは、くだらないタラレバだ。
ならば――
会いに行こう。
明日。
手遅れになる前に、彼女に示さなければならない。
どれほど、彼女を愛しているのかを。




