君は誰だ
午後の日差しがカーテン越しに差し込み、紅茶の湯気を淡く照らしていた。
ふたりの間に置かれたティーカップは、どちらもほとんど手つかずのまま、温度を失っていく。
アリシアは、ひざの上に置いた手を重ねたり戻したりしながら、ちらりとテオドールの横顔をうかがっては視線を落とす。それを、何度も繰り返していた。
テオドールは机の下で、脚を何度も組み替え、踵をつけたまま、つま先で軽く床を叩いていた。
ふいに目が合いかけて、どちらともなく視線を逸らした。
テオドールは目を強く閉じ、眉を深くひそめると、ゆっくりと息を吸いながら、拳を机に置いた。
そして、覚悟を決めたように重くなっていた口を開いた。
「あの日、なぜ君が来た?」
「……」
アリシアは、破られた沈黙に安堵しながらも、答えを詰まらせ、何も言い出せなかった。
沈黙がまたしばらく続いた。
テオドールは軽くため息をつくと、窓の方へ目をやった。
窓の外では春の陽光を浴びて木々が優しく揺れ、小鳥たちのさえずりが響く。
彼が、そのまま窓の方へ立ち上がろうと腰を上げると、アリシアは慌てて顔を上げた。
それに気づいたテオドールは、彼女の方を見つめる。
アリシアは重力に任せるようにゆっくりと視線を落とすと、テオドールに届くか届かないかの小さな声でいった。
「……会いたかったんです」
テオドールは眉を上げ、その小さくなった生き物をまじまじと見つめると、そろりとまた腰を下ろした。
「…何のためだ?」
「…理由は、ありません」
テオドールが、アリシアの奥を見定めるような、探るような視線を向けた。
(そう、この瞳…)
その眼差しはいつも、目の前にいるアリシアではない『誰か』を見ている。
「…誰をみているのですか?」
「…何のことだ?」
「私の中に、誰を探しているんですか?」
「…」
テオドールは天井を見上げ、ふーっと大きく息を吐く。
彼はアリシアの横に立つと、腰をかがめ、右手で彼女の頬にふれた。
アリシアとテオドールの視線がぶつかる。
「アリシア、この瞳に映るのは君だろう?」
テオドールの瞳の鏡に、アリシアの姿が映っている。
テオドールが、アリシアの表情やしぐさ、その全てから彼女を知ろうとしていた。
アリシアが、ずっと、欲しかった眼差しだ。
「今は…、そうみたいです」
アリシアの瞳から涙がこぼれた。
「…どうしろって言うんだ」
テオドールが、途方に暮れたような顔をしてつぶやく。
頬に触れた手の温もりが気持ちよくて、両手で覆うと、彼の掌にキスをした。
「私は、あなたが好きなんです。テオドール」
自分が、出来得る最上級の笑顔をつくった。
テオドールの顔が、どんどん色をなくしていくのがわかった。
「こんな風にあなたを困らせているのに、私のことで狼狽えるあなたを見て、喜ぶなんて…」
自虐的な思考に走ってしまう自分が、浅ましくて恨めしくて、懺悔するように口に出した。
「婚約者失格ですね」
テオドールの目が、まるで言葉を失った詩人のように、アリシアの姿を映していた。
アリシアという存在が、いま初めて彼の前に現れたような──そんな瞳。
「君は、誰だ……」
午後3時を知らせる置時計がなった。
アリシアは、頬に触れるテオドールの手をそっとはがし、机の上に置いた。
「私は、アリシア・ド・ラモットです」
そう言って、立ち上がり、会釈をすると、
「時間ですので」
と、サロンをでた。
廊下を顔を上げて歩く。
(彼の気持ちがどうであれ、私は彼のことが好きなのだ。どうしようもできない。…なら、堂々としていよう)
もう一度胸を張った。




