ジュリアンの恋愛指南①
翌日のレッスンは、ひどいものだった。
音もリズムも全てがバラバラで、楽譜すらまともに追えない。
「ストップ、ストップ、ストップ!!!
アリシア、今日はもうやめよう。
どうしちゃったの?」
ジュリアンが、今にも泣き出しそうな顔をしてアリシアを見る。
「…ごめんなさい」
うまく笑顔を作ることができない。
「とりあえず、お茶でもしよう?こんな日もあるよ」
ジュリアンが、慰めるようにアリシアの肩を叩いた。
*****
ジュリアンはアリシアの真横に座り、小さなティーテーブルの上にあるお菓子を、ハミングしながら選ぶ。
アリシアは、ベルガモットの香りが漂う紅茶を一口と飲むと、その香ごとこぼすように呟いた。
「…フローラ様って、どんな方だっんですか?」
ジュリアンが、目を丸くしてアリシアをみた。
「…どうしたの?急に」
アリシアは、はっとして、取り繕うように表情をつくるが、うまくいかない。
「何でもないです。忘れてください」
ジュリアンは、心配そうにアリシアを見た。
「テオドールと、なんかあった?」
「……」
アリシアは、硬い表情のまま首を振った。
ジュリアンはふうっとため息をつき、肘を机に乗せると、横目でアリシアを見た。
「知っても意味ないと思うけどね…」
ジュリアンは、仕方ないなといった顔で、言葉を繋げる。
「……フローラ嬢は、ピアノの達人で、……愛され屋さん、かな」
「え?」
「フローラ嬢には、何度か伴奏をお願いしたことがあったけど、愛情にすごく飢えてる子だなって印象だったよ。幼い頃に、実母を亡くしてて、そういうのも関係あるのかなぁ」
「…」
「まぁ、テオドールは、婚約者なんて公爵家の
歯車の一つくらいに思ってたから、
あ、今は違うよ?………多分」
アリシアは苦笑した。
「そんなだからさ、付き合いも形式的で最低限、『塩』そのもの。フローラ嬢に対して恋愛感情を持つ様子もなかったよ」
「え??でも、テオドールは…」
「ん?」
「テオドールは、フローラ様を愛していたんですよね?」
「ないないないない!ぜっーたいない!!!」
「え…?」
「どこでそんなウソ情報仕入れてきたのさ」
ジュリアンは、アリシアをもう一度しっかりみると、彼女に言い聞かせるように言った。
「いい?あの二人の間に、恋愛感情なんて一つもなかったよ」
「…そんな…」
「駆け落ちした絵描きは、侯爵家の愛情豊かな次男坊。テオドールが敵う訳無いだろう?」
「…でも…」
「でも?
でもって何だ?
あ、あれだ。
もちろん、恋愛感情がなくたって、テオドールは傷ついたよ?
自分なりに役目を果たしてたのに、突然婚約者を失ったんだから……」
ジュリアンは、珍しく早口でまくしたてるように話した。その声にはやるせなさがにじむ。
アリシアは、ジュリアンの言葉を飲み込むと、また一口、ベルガモットの香りのする紅茶を口に入れる。
そして、口の中に広がる香りをしばらく味わうと、静かに口を開いた。
「…どうして、私だったんでしょう…」
「ん?」
「レオノーラ様や、他にも相応しい方がたくさんいらしたのに…」
「んー…」
ジュリアンは腕を組み、しばし思案するそぶりを見せた。
が、言葉にはしないままで、目の前にあったお菓子に手を伸ばす。
アリシアは、テオドールとのこれまでの関わりを、反芻するように、思い浮かべた。
そして、紅茶をもう一口。
「一度だけ…、婚約して間もないころに、キスされたことがあったんです」
「え!?そうなの?……テオドールから???」
ジュリアンが思いきりお菓子を吹き出した。
「……はい」
アリシアはナプキンを手渡した。
「へぇ…。意外だな。続けて?」
「でも、そのあと、例の嵐があって、2か月会えなくて」
「うんうん」
「再会したのが、オペラ・ド・ラ・ミューズの創立記念日だったんですけど…。公演が終わったくらいから、急に彼の態度が冷たくなったような気がして…」
「ふうん…。僕が幕前演奏した日だよね?」
「はい」
「冷たくなったって、どんな風に?口を利いてくれないとか?」
「いえ、そういうのじゃなくて。もともと口数の少ない人ですし…」
「まぁ、…そうだね」
「基本的には、いい婚約者でいてくれるんです。本心は別として、丁寧に接してくれます」
「ん?」
ジュリアンのカップを持つ手がとまる。
「え?」
「あ、まぁ、続けて」
ジュリアンは、そう言うと紅茶を一口すすった。
「テオドールにとって、私は景色の一部なんです。視界に入ったとしても、特段、意識を向ける必要のない」
「アリシア…」
「時々、私に注意を向けることもあるんですよ?
でも、そういう時の彼は、きまって、私の中に誰かを探すんです」
「……」
「彼は、もしかしたら、その誰かと一緒にいたかったのかなって…」
カチャッと小さな音を鳴らしながら、ジュリアンはカップを置いた。
「あー。なるほど。それでフローラ嬢が浮上してきたわけね」
「…はい」
ジュリアンは、カップの飲み口を指でなぞると、トントントンとリズムをとる。
「ふーん。
なんか、こじらしてる感すごいなー」
「?」
「テオドールに、それを伝えたことは?」
「…ありません」
「逆にテオドールから、何か言われたり求められたりしたことは?」
「……婚約者としての交流スケジュールのようなものなら、手紙で…」
「違う違う。それは、求められたんじゃない。ただの予定の確認だよ?」
アリシアは、テオドールとのやり取りを思い出すが、その記憶が何故かぼやけて見える。
「…なにか、あったのかな…」
紅茶に伸ばそうとしたアリシアの手を、ジュリアンはきゅっと掴んで、覗うようにみる。
「アリシア、テオドールのこと、ちゃんと見てる?」
「え?」
「いい婚約者でいることばかりに気を取られて、テオドールに向き合ってないんじゃない?」
ぼやけた記憶の欠片達が、頭の中で不規則に再生されていく。
「……そう、かもしれません」
重ねられた手の人差し指が、トントントンとアリシアの手の上でリズムをとる。
「自覚ある?
君、テオドールのこと、もの凄く好きみたいだよ?」
「え……」
アリシアの手をつかむジュリアンの手に、ぎゅっと力がこもった。
「勝手な思い込みを捨てて、目の前のテオドールをちゃんと見てごらんよ、アリシア。景色が、違ってくるはずだから」
「ジュリアン様…」
ジュリアンは、穏やかな表情でアリシアの頭をぽんぽんと撫でた。
その手がすっと頬へと移動し、もう片方の手でアリシアの体を引き寄せる。
そして、顔を近づけ――
アリシアは反射的に、両手でジュリアンの口を塞いだ。
指先に、彼の柔らかく湿った唇の感触が伝わる。
「ジュリアン様!?」
ジュリアンは、残念そうに身を引いた。
「や、だってさ。アリシア、可愛いんだもん。ついキスしたくなっちゃった……ダメ?」
「だめですっ!」
「はは、そうそう。そういうとこ」
アリシアが恨めしげに睨むと、ジュリアンの目が窓の外へ向かい、「……あっ」と驚いたような声を出す。
釣られてアリシアも振り向く。
その瞬間――
頬に、ふわりと柔らかな唇が触れた。
(えっ……?)
反射的に頬に手を当てたアリシアを、ジュリアンがくいっと引き寄せ、ふわっと唇を重ねる。
「ジュリアン様っ……!!」
「あはは。契約外の恋愛相談にのったんだよ?ご褒美くらいもらわないと!」
動揺するアリシアをよそに、ジュリアンは楽しそうに笑い、一気に紅茶を飲み干した。
「もう…」
恨めしそうにジュリアンを睨むアリシアに、ジュリアンが勝ち誇ったように笑う。
「やっと、アリシアらしくなったね」
ジュリアンは鼻歌交じりで椅子から立ち上がった。
「じゃ、そろそろ行くね」
そう言って扉の前で振り返る。
「テオドールに、上書きしてもらいなよ?」
いたずらっぽく笑うと、リズム良い足音を響かせて、去っていった。




