革の手袋②
王宮の応接室の扉には、細緻な彫刻と金箔の縁取が施され、見る者に威厳を感じさせる。
その重厚な扉がぎぃっと音を立てて開かれると、アリシアの背筋は自然と伸びた。
正面奥のソファには、フィリップ殿下がゆったりと体を預けるように座っている。
その斜め向かいには、舞踏会でテオドールと話し込んでいた小柄な男性が、その男性の隣には、栗色の髪をした色白の青年が控えめに腰を下ろしていた。
その姿は、かつてヴィクトリアの従者として目にした青年を彷彿とさせた。
アリシアはドレスの裾を摘み、テオドールは胸に手を添えて、殿下へ深く一礼する。
「お招きにあずかり、恐れ入ります、殿下」
フィリップは軽く顎を引いて応じた。
「よく来てくれたね。――座って」
二人が腰を下ろすのを見届けると、フィリップは指を揃え、掌を上に向けて隣の銀髪の男性を示した。
「アリシア、こちらはモーリス・ド・エルバン侯爵だ。その隣が嫡男のリオネルだ」
続いて、その手をアリシアに向け、侯爵達へと視線を移す。
「モーリス卿、こちらはテオドールの婚約者、アリシア・ド・ラモット嬢だ」
「お初にお目にかかります」
アリシアはドレスの裾を摘み、慎重に礼を取った。エルバン侯爵達も、短く会釈を返す。
(……フローラ様のお父様だったのね)
「さて、アリシア」
フィリップはソファに肘をつき、酷薄な笑みでアリシアを見つめる。
「君は案外、じゃじゃ馬だったんだね」
その声色に、アリシアはひやりとした。
フィリップはテオドールにも冷ややかで歪んだ笑顔を向ける。
「テオドール、君も婚約者の手綱くらい、きちんと握っておくべきだろう?」
「申し訳ございません」
丁重な謝罪に、フィリップは満足げにうなずく。
「アリシア、君のトンプスでの様子については、あらかた報告を受けている。ここで詳しく問い正すつもりはない」
「はい」
「レインの他に、『ラモット伯爵家のご令嬢』がトンプスへ行ったことを知る者は?」
鋭い視線がアリシアを射抜く。その目は、欺瞞を一切許さぬと告げていた。
「侍女のミーナと領地の祖母だけです」
「…わかった」
短く息を吐き、フィリップの声が低く沈む。
「いいか、アリシア。これは警告だ。これ以上、この件に首を突っ込むな。すべて忘れろ」
言葉が、刃のように突き刺さり、足がすくんた。
「はい。申し訳ありません」
アリシアの答えを聞くと、フィリップはふっと口元を緩め、先ほどまでの威圧を嘘のように消し去った。
「さて――お説教はこれでおしまいにしよう。
アリシア、怖がらせて悪かったね」
柔らかな声色のまま、横に座る銀髪の男性に視線をやる。
「モーリス卿がね、かわいい娘の様子をどうしても聞きたいっていうんだ。忘れろとは言ったが、今日これから、この限りだけ、彼女の様子を話してあげてくれるかい?」
そして今度は、テオドールに目を向ける。
「テオドール、君はあっちで僕と話そう」
フィリップが奥の扉に視線をやると、テオドールは無言で立ち上がり、二人で奥の部屋へと消えていった。
*****
「娘は……どんな様子でしたか?」
モーリス卿が、不安を隠しきれぬ声でアリシアに問う。
「フローラ様は教会でパイプオルガンとても愉しそうに弾かれていました。旦那様とも仲睦まじく、穏やかなご様子でした」
「…そう、ですか」
父モーリスの表情に、安堵の色が帯びる。
「それと…お腹が少し膨らんでいたように思います」
「確かですか?」
弟リオネルの低く押し殺した声が割って入る。
一瞬、言葉を詰まらせたアリシアだったが、視線をまっすぐに受け止めて答えた。
「遠目でしたが、そう見えました」
リオネルが苦い顔をする横で、モーリスは喜びとも悲しみともつかない表情を浮かべる。
「ミサの時にお姿を拝見しただけなので、これ以上のことはわかりません。すいません」
「いえ、十分です。ありがとう」
モーリス卿は、アリシアに誰かを重ねるように微笑み、ぽつりと漏らした。
「娘が、…娘の我儘のせいで、テオドール君や君、多くの人の人生を変えてしまった。…すまなかったね」
アリシアは胸の奥が締め付けられるようで、言葉が出なかった。
ただ、静かに首を横に振るだけだった。
*****
モーリスとのやり取りが途切れ、応接室には静けさが落ちた。
しばらくして、奥の扉がゆっくりと開く。
飄々としたフィリップ殿下、その後ろに不機嫌そうなテオドールが続いて部屋から出てくる。
テオドールは低く囁く。
「帰ろう」
アリシアがフィリップを見ると、殿下はにこやかに頷いた。
アリシアが立ち上がるとすぐに、テオドールが口を開いた。
「先に失礼します」
礼を尽くすテオドールに続き、アリシアも急いで深く頭を下げた。
*****
応接室を出ると、テオドールは足早に廊下を進み出した。
アリシアは裾を押さえ、必死に彼の歩みに合わせる。
廊下を抜けると、外はしっとりと雨に濡れていた。
馬車は静かに馬を揃え、二人を待っている。
テオドールは馬車の扉に手をかけ、ゆっくりと開く。
座席に残されていた、ハンカチに包まれた小包を見つけると、アリシアに差し出した。
「君のか?」
アリシアは手を伸ばしてそれを受け取り、胸の前でぎゅっと抱きしめた。
「はい。ありがとうございます」
馬車が静かに揺れ始める。
あの時、呑気にお土産を選んでいた自分は、なんと無知で愚かだったのだろう。
テオドールの手を煩わせるばかりか、フローラの代わりにもなれない。
雨粒でぼやけた窓の景色が、今の自分の姿と重なって、ため息すらこぼすことが出来なかった。
*****
ラモット邸の玄関に着くと、テオドールが先に馬車を降り、アリシアに手を差し伸べた。
その手を取ってアリシアも馬車を降りると、自然とテオドールと向かい合う形で立った。
テオドールの中に、どうしてもフローラを見てしまい、胸にわいた諦めが、思わず俯かせた。
テオドールは、そんなアリシアを哀れむように見つめると、まるで壊れ物を扱うかのように、彼女を抱き寄せた。
アリシアはそれが余計に悲しくて、動けなかった。
「フローラは、幸せそうだったか?」
その問いは、凍りついたはずの心に、矢のように突き刺さる。
「はい。とても」
彼女は精一杯の力で、力なく笑みを返す。
一瞬、アリシアを抱きしめる力が強くなったかと思うと、すぐに腕は解かれた。
「時間を取らせたな」
そう言うと、テオドールはしずしずと馬車に戻っていった。




