画家のアトリエ④ テオドール視点
金曜日の朝、ラモット領にいるアリシアから、手紙が届いた。
体調をくずしたから、しばらく領地で静養すると言う。
もちろん、予定していた午後のお茶会はキャンセルされた。
体調不良は、おそらく事実だろう。
トンプスへの船旅が堪えたに違いない。
なのに、なぜこんなに苛立つのか。
*****
画材屋に足を運ぶと、店主が慌てて姿勢を正し、テオドールを見た。
「居るか?」
「はい」
2階のアトリエへ向かい、ドアノブを回す。
今度は、鍵が掛かっていた。
(居るときに鍵をかけ、居ないときにかけないとは…理解に苦しむ)
深く息を吸い込み、勢いよく扉を蹴り開けた。
「ひゃあっ!」
階下から店主の素っ頓狂な声が響く。
キャンバスの前に座っていた男が、驚いた顔でこちらを見た。
(ジュール・モレル…。また、お前か…)
「…言ってくだされば、開けましたのに」
「…すまない」
ジュールは立ち上がると、部屋の隅に置かれていた丸椅子を持ってきて、中央に置いた。
「こんな椅子しかありませんが、よければお使いください」
テオドールは無言で腰を下ろした。
椅子の脚が、わずかに床をきしませる。
その音が、静まり返ったアトリエにひどく響いた。
描きかけのアリシアの肖像画を見て、テオドールが言った。
「展覧会の絵とは、ずいぶん違うな」
「やっぱり分かりますか?」
「師は?」
「いません。両親が反対してますから。
でも、友人のルカ・アルベリーニが教えてくれました」
「なるほど」
「あの絵は、ルカの筆致を真似したんです。
それでアリシア様は、僕をルカ本人か、同門と思って訪ねてきたようです」
「何を話した?」
「…ルカのことです。僕とルカは今も手紙のやり取りをしています。モナカ共和国のギルドを通してですが…」
「…」
「そのことをお伝えすると、アリシア様から“ヘンドリック・リヒトフェルド”という名前が出ました。
詳しい居所を知りたいご様子だったので、テオドール様に直接聞くよう言いましたが…」
(それで、マノンとリストを調べたのか)
「他には?」
「特には、ありません」
「わかった」
テオドールが、立ち上がろうとすると、ジュールが慌てて口を開いた。
「テオドール様。
この絵を描き上げたら、僕は筆を折るつもりでいます。アリシア様をこのまま描き続けることを、お許しいただけませんか」
「なぜだ?」
「他の方の婚約者を、黙って描くなんて……」
「そうじゃない。筆を折る必要はないだろう」
「……?」
「それで君の気が休まるなら、続ければいい。『画家になる者だけが絵を描ける』なんて法もない」
「…そう、でしょうか…」
「君の性格からして、侯爵家の務めを放り出してまで、絵に没頭することもないだろう?」
「…そう、ですね…」
「なら、問題ない。描きあがったら、公爵家に送ってくれ。言い値で買い取ろう」
「…いえ。お二人のお祝いとして贈らせてください」
「そうか。楽しみにしている」
テオドールはアトリエを出て、店主に目配せすると、
「扉の修理代だ」とカウンターにお金を置き、そのまま店を出た。
*****
帰りの馬車に揺られながら、テオドールはひとり眉をひそめていた。
(駆け落ち騒動後、ルカ・アルベリーニの作品は全て処分したはずだ。なのに、ルカのタッチを、なぜアリシアが知っていた?)
「おい」
テオドールは斜め向かいの座席にいる従者を呼んだ。
「はい」
「ルカ・アルベリーニの絵は全て処分したはずだな?」
「はい。ですが、例外が一つあります」
「何だ?」
「前王妃様です」
(ああ、そうだった…)
フローラは前王妃の姪にあたる。
男児しか産めなかった前王妃は、殊の外フローラを可愛がっていた。
ピアノの才があるとわかると、なおさらに。
(確かサロンに、ルカが描いたフローラの肖像画が飾られていたな…)
駆け落ち騒動後に、前王妃に肖像画の処分を求め、のらりくらりと躱された、嫌な記憶がある。
死に際になっても、駆け落ちしたフローラを保護し、匿うよう、よりにもよってテオドール本人に頼んできた、図太い人間だ。
そのせいで、どれだけ疲弊したか。
それに気づいたフィリップに利用され、面倒事にも巻き込まれた。
そして、今も、アリシアを通じて、テオドールを煩わせている。
「死んでもなお、やっかいな御人だ」
「……は?」
「いや、なんでもない」
(しかし、ようやく繋がったな…)
馬車の窓から外の景色を見る。
(だが、それでも、理由がわからない)
*****
「そんなの、テオドールのことが好きだからにきまってるじゃないか」
森の小道を馬で駆けるテオドールの隣で、派手なスカーフを巻いた男が、さらりと言った。
「だったら話が早いんだがな」
「え?信じてないの?」
せっかく気晴らしに馬を出したのに、ジュリアンなんかに出くわして台無しの気分だった。
「信じるも何も、そう判断するに足るだけの事実がない」
「嘘でしょ?アリシアがあんなに好き好き光線出してるのに?」
「そう見えるなら、アリシアの演技に騙されているだけだ」
「えー、そうかなー?
アリシアはテオドールのことが気になるから、前婚約者のことも気になるんでしょ?」
「それは違う」
「へえ、じゃあ逆に教えてよ。何でアリシアはフローラを気にするのさ!」
「…黙れ」
「自分で話題振ったくせに!」
あまりにうるさいので、逆方向にすすみ、巻いてやった。
*****
3日後、久しぶりに会った婚約者の瞳には、以前よりも一段と深い、諦めの色が浮かんでいた。
(これのどこに「好き」光線があるというんだ)
この女は、どうしてこんなに不幸そうなんだろう。出会った頃の、あのキラキラした姿はどこに消えたのか。
もし自分と婚約したせいで、彼女がこんなになってしまったのなら、本当に申し訳ないことをした。
壊れ物を扱うように、そっと彼女を抱き寄せる。彼女は何も言わず、ただそのまま身を委ねた。
「フローラは、幸せそうだったか?」
「はい。とても」
彼女は薄く笑った。
(同じような幸せを与えてやれなくて、すまない)
一度だけ強く抱きしめると、すぐに腕を解いた。
「時間を取らせたな」
そう言って、テオドールはラモット邸をあとにした。




