表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

33/43

モナカ共和国へ

どぷん、と波が船腹を叩くたびに、アリシアは揺れる甲板の上で足を踏ん張った。朝日が水平線から、少しずつ姿を見せ始める。


「お嬢さま!見てください!イルカですよ、イルカ!」

 ミーナは手すりから身を乗り出し、今にも海に落ちそうな勢いで指さす。


「ほんとね、船と並んで泳いでるみたい…」


「ですです!かわいいですね!!」


帆は風をはらみ、ロープがぎゅっと鳴った。

船員たちが軽々とマストをよじ登っていく。


「うわぁ、かっこいい! あ、あの人、片手でロープ持ってますよ!」


「ミーナ、少し落ち着いて」


「落ち着けませんって!船ってこんなに面白いんですね!」


マノンに頼んでこっそり見せてもらった公爵家の支援芸術家の名前に、ヘンドリック・リヒトフェルドがあった。

住所は、モナカ共和国 トンプス。


「結婚前に、療養中のお祖母様に会いに領地に行きたいの」

と、両親に伝えると、少し驚いた顔はされたけれど、すぐに了承された。


祖母には正直に話した。

「みんなに内緒で、トンプスの街へ行きたいんです」

祖母は、何も聞かずににこりと笑って、

「若いうちは、いろんなことを経験しなさい」

と、信用できる商会を紹介してくれた。


自分にこんな行動力かあるなんて、思わなかった。


地平線の向こう、陽を浴びて白く光る街並みが、水面に淡く映りながら姿を現す。


「見えたぞ、トンプスだ! 荷下ろしの準備をしろ!」


船員の声に、甲板は一気に活気づいた。


アリシアとミーナは、邪魔にならぬよう手すりから離れ、物語の舞台でも観るような気持ちで近づく街を見つめていた。



*****



「おはようございます。これからお二人の案内役兼護衛を務めます、レインです」


港に着くと、背が高くてすらりとした青年がにっこり笑いながら、アリシアとミーナを馬車へと案内した。


商船の船長が自慢げに言う。


「お嬢様方、トンプスのことはこの男に任せてください。安全と快適は保証しますよ!」


「頼もしいですね。どうぞよろしくお願いします」


アリシアが微笑むと、レインは少し照れくさそうに笑った。


揺れる馬車の中、ミーナは窓の外を興奮気味に見つめていた。

「わあ、レンガの家がいっぱい!まるでお菓子の家みたい!」

レインは苦笑いしながら答える。

「食べても甘くありませんけどね。でも古くて趣のある町ですよ」


馬車は石畳の細い道をくねくねと進み、運河沿いの家々からは洗濯物が風に揺れていた。


「ご希望の場所は、あの真新しい赤レンガの三角屋根の家です。とはいえ、どの家も似たような形ですから、見分けるのは難しいかもしれませんね」

「まるで赤レンガの迷路みたい」

ミーナが言うと、アリシアはクスッと笑った。

「では、あの家の前で降りますか?それとも、付近を散策して迷子になりますか?」

レインがいたずらっぽく尋ねる。

「こんな素敵な街なら迷子になるのも悪くないかも」

アリシアが冗談めかして言うと、ミーナは大慌てで口を挟んだ。

「えっ!嫌です!迷子なんて絶対嫌です!」


そんな話をしているうちに、馬車は家の前を通り過ぎる。


「留守みたいでしたね」

カーテンを少し開けて、ミーナが言う。


「ええ。今の時間は皆さんミサに行かれていますから。このまま、教会へ向かいましょう」


やがて馬車は、小さな教会の前に止まった。

隣を見ると、ミーナが、座席にすっぽりと埋まり、子猫みたいに眠っている。


「僕がみてますよ。お嬢様はどうぞミサにご参加ください」


「ありがとう」


アリシアは、一人、パイプオルガンの美しい音色が響く建物に向かう。


入口の脇の壁には、描きかけの壁画があった。

立ち止まって、眺める。

ヘンドリックの筆致のようだった。


讃美歌がこだまする礼拝堂の゙扉を押し開けて、一番うしろの席に腰かける。


隣の老婦人が、にこやかにささやいた。

「はじめての方? ゆっくりしていってね」

アリシアも小さく微笑み返す。


そして、アリシアが、ゆっくりと前方の祭壇に視線を移すとーーー王宮舞踏会の絵の中にいた小柄で可愛らしい女性が、パイプオルガンを弾く姿が見えた。


(フローラ様だ…)


彼女の指先は迷いなく鍵盤を駆け、音は澄んだ賛美歌の歌声と溶け合いながら、光の粒のように礼拝堂の隅々まで飛び散っていく。


時折、頬に小さな笑みを浮かべながら、まるで音そのものと語り合っているかのように、オルガンを奏でる。


そうして、曲が終わると、柔らかな静寂の中で、誰もがその余韻に浸っていた。


フローラが立ち上がり礼をすると、細身の男性が彼女に近づき、労わるようにその手を取った。

フローラのお腹が、やさしい丸みを帯びているのがわかった。


(幸せそうね…)


その様子に心が温かくなる。


(……あれが、テオドールが守りたかった景色)


同時に胸の奥が、ちくりと痛む。


(駆け落ちしても、なお、大切にされているのね)


その事実は、喜びにも似た温かさと、指の間からこぼれる砂のような虚しさを同時に連れてくる。


アリシアは、隣の老婦人に会釈すると、何かに押されるように教会を出た。


入口の大きな柱の陰に身を寄せる。

冷たい石の感触が背に伝わり、足元から力が抜けていく。

そのまま膝を抱き寄せ、小さく身を丸めた。



*****



しばらく深呼吸を続けると、潮風の匂いがして、心の波も少しだけ静まっていった。



一度大きく息をして、顔を上げた。


馬車へと戻る石畳は、昼の光を受けて白く輝いている。

その眩しさに目を細めながら馬車まで向かうと、そこにはレインと、見覚えのある女性が一人立っていた。

女性はアリシアに気づき、唇の端をきゅっと上げる。


「あら、早かったのね。まだミサの途中でしょう?」


「ヴィ――」

危うく名前を呼びそうになり、慌てて口をつぐむ。

(……ヴィクトリア様!?)


「あなた、こんな所まで来て、あの仏頂面とはうまくいってないの?」

陽光みたいな笑顔で、さらりと鋭いことを言ってくる。


「お知り合いですか?」

レインが驚いてアリシアを見る。


「ええ、以前にカリント王国で…」


「何言ってるの、アリシアはテオドールの婚約者よ?」


「え?」

レインの目がさらに丸くなる。


「ねぇ、レイン。もしかして、私に妹ができるのかしら? 名前はリーケなんてどう?」


「おふざけが過ぎますよ、コルネリア」

レインは眉をひそめながらも、あきれ半分、慣れ半分の声だ。


「あら? 私は本気よ? アリシアが妹なら、きっと退屈しないわ」

コルネリア――ヴィクトリア改め――は、楽しそうにアリシアへ視線を送る。


「はいはい。わかりましたから、それ、届けなくていいんですか?」

レインが彼女の腕のかごを指さした。


「あっ! そうだったわ。『ミサが終わる前に』って頼まれてたのよね」

かごの中には、薄焼きのワッフルがきれいに並んでいる。コルネリアはちらりとそれを見せると、

「またね、アリシア」

と、いたずらっぽく笑い、教会へと早足で向かっていった。


その弾むような後ろ姿が、陽の光に溶けて、胸を刺すほど眩しかった。


「……大丈夫ですか?」

低く柔らかいレインの声がする。


「え?」


「……お顔が真っ青ですよ」


「……そんなにひどい顔をしてますか?」


「ええ」


 正直すぎる返事に、アリシアは力なく笑った。

 それから、ふと気になって尋ねる。


「レインは、公爵家の人なんですか?」


「厳密には違いますが、まあ似たようなものです」


「そう…。私がここに来たこと、テオドールに知らせますか?」


「はい」


「内緒にしてほしいとお願いしても無駄でしょうね」


「はい」


真っ直ぐで、飾らない答え。

その瞳に嘘はない。


「……テオドールは、どうしてこんなことをしているの?」


レインの目元や口元が、柔らかく緩む。


「テオドール様は、ああ見えて、お優しい方ですから」


「そのようね」

 アリシアは、頼りなく笑みを返す。


「けれど、ヘンドリックさん達のことはともかく、コルネリアの件は別ですよ」


「え?」


「フィリップ王子の国取りゲームと、コルネリアの復讐劇に、巻き込まれただけです。テオドール様の意思ではありません。詳しくは言えませんが…」


「……そう、なのね」



「んーーー!」


馬車の中から、伸びをする声が聞こえた。


二人は思わずそちらを見る。


「ミーナが起きたみたい」


「そのようですね」


「予定は済んだし、帰りの時間まで、モナカ共和国を見て回りたいわ。お土産も選びたいし」


「ええ、お任せください。まずは、地元で人気の薄焼きパンケーキでランチと行きましょう」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ