画家のアトリエ②
コンコン――。
アリシアが扉を軽く叩くと、中から張りのある声が返ってきた。
「開いてますよ」
そっと扉を開けると、絵筆を握り、画布に向かう青年の後ろ姿があった。
「ブルーの絵の具が切れたんです。今からそちらに行こうと思っていたところでした。ちょうどよかった」
どうやらアリシアを店主と勘違いしているらしい。静かに扉を閉め、部屋へと足を踏み入れた。
「こんにちは」
アリシアの声に、青年の動きがピタリと止まった。
ゆっくりと、スローモーションのように青年が振り返る。
「………ジュール様」
「アリシア様…?」
お互いに、目の前の存在が信じられないといった表情で見つめ合う。
ジュールが、大きく息を吐き、冷たく言い放つ。
「肖像画なら、お断りしたはずです」
(レムス・ジョルは、ジュール様だったのね…)
彼の冷たい態度に驚きつつも、不思議と恐れはなかった。
「絵を、嗜まれるんですね」
まっすぐな眼差しで告げると、ジュールは視線を逸らし、バツが悪そうに言った。
「侯爵家を継ぐ者としては、分不相応な趣味です」
(ご家族に、反対されているのかしら…)
「誰にも、言いません」
ジュールの瞳が再びアリシアを捉えた。
「私はただ、レムス・ジョルという画家に、聞きたいことがあって来ただけですから」
ジュールは、アリシアの様子をまじまじと見つめると、観念したように口を開いた。
「……アリシア様を、勝手に絵のモデルにしたことは、謝ります」
「え?」
思わず瞬きをするアリシア。
「え?」
今度はジュールが驚いた顔になる。
「……何の話ですか?」
「え? アテナのモデルとしてアリシア様を描いたことで、いらしたのでは?」
(そういえば、テオドールもそんなことを言っていたような……)
「ち、違います……」
自分がモデルにされていたと知って、アリシアの頬がほんのりと紅に染まる。
二人の間にあった張りつめた空気が、ふっと緩んでいった。
「どうして、私なんかをモデルに?」
アリシアが問いかけると、ジュールは、伏し目がちに、照れたように口を開いた。
「王宮舞踏会で……テラスで倒れそうになっていた男を覚えていますか?」
「え?あ…、ああ!」
「あれは僕です」
ジュールは力なく笑って続ける。
「前日に絵の構想に夢中なりすぎて、気がついたら夜が明けていました。そのまま執務をこなして、舞踏会に行ったので、足元もふらついて…」
「まあ……」
「あの時、助けてくれたあなたが、僕にはアテナに見えたんです。気づいたら、あなたのことを描いていました。…忘れていましたよね」
「お顔までは……」
「はは、ですよね。実は、僕も朧げでした」
ふっと、二人の間に小さな笑いがこぼれる。
「でも――馬術大会で、テオドール様が妹のハンカチを拾ってくださって、振り返ったらアリシア様がいらした。
あの瞬間は、本当に驚きました。
テオドール様の婚約者だと知った時は……正直、少しショックでしたが」
そこで慌てたように、手を振る。
「あっ、深い意味はありません。…いや、この言い方だと余計変ですね」
「ふふっ。大丈夫です」
二人の笑みが収まると、ジュールは首を傾げ、真剣な眼差しで尋ねた。
「では…何故こちらへ?」
アリシアは少し躊躇い、それからしずしずと口を開く。
「ルカ・アルベリーニ様をご存じですか?」
ジュールは、その名を聞くと眉毛を押し上げ、じっとアリシアを見つめた。
「ジュール様の絵が、ルカ様のとよく似ていると思ったんです。だから、あの絵はルカ様本人か、近しい方のものだろうと」
「…なるほど。それで…」
「ルカ様のお知り合いですか?」
「はい。古くからの友人で、ここで一緒に絵を描いていたこともあります」
「そうですか」
「アリシア様のご想像通り、あの絵は、ルカの昔の筆致を真似て描いたものです」
「…昔の?」
「はい。今のルカは、事情があって新しい筆致を使っています。それはそれで素晴らしいものですけど…」
(駆け落ち先で、新しい画家として画風を変えたのかしら…)
「今も仲がよろしいのですか?」
「手紙のやり取りだけですが、交流はあります」
「今、ルカ様は、どこに?」
ジュールはしばらく考え込み、口を閉ざした。
ジュールの立場を考えると、アリシアはそれ以上、問うことが出来なかった。
「多分、テオドール様のほうがよくご存知だと思いますよ」
「え?」
「ご存知なかったですか?2人の駆け落ち先を整えられたのは、他でもないテオドール様です」
アリシアは言葉を失い、唇を震わせた。
「そういえば…、最近の手紙で、ルカに妹ができたと書いてありました。妙な話ですが」
「…小柄で…ブリュレ訛りの?」
「え? ええ、ご存じだったんですね」
(――きっと、ヴィクトリア様だ…)
ふと、展覧会でテオドールが足を止めた一枚の絵を思い出す。
公爵家が支援している画家は何人もいるはずなのに、彼の注意をひいたのは、その作品だけ。
「ヘンドリック・リヒトフェルド…」
「はい…。その画家です。手紙は、モナカ共和国の絵画ギルドを介しているので、僕には詳しい住所まではわからないんです」
テオドールは、あの絵をどんな眼差しでみていたのだろうか。
思い出せない自分が、ひどく薄情者に思えて、やるせなくて、目を閉じた。




