美術展覧会
アリシアは、目の前の絵に足を止めた。
視線は、まるで吸い寄せられるように、それに釘づけになる。
――レムス・ジョル。
聞いたことのない名の画家だった。
描かれているのは、神話の一場面。
女神アテナが、若きペルセウスに輝く盾を授ける瞬間――。
鮮やかな光と色彩が柔らかく溶け合い、画布の上で静かに息づいていた。
(……似ている)
王宮舞踏会で目にした、ルカ・アルベリーニが描いたフローラの肖像画に。
肌は淡く温もりを帯び、衣は軽やかに風をはらみ、光と影が織りなすきめ細やかな筆致。
(ルカ様の絵?…それとも、同門の方?)
隣で、テオドールがその様子をしげしげと見ていた。
「……気に入ったのか?」
「ええ。この作者にお会いするには、どうすればいいのでしょう」
もしこの画家がルカ本人、あるいは彼と近しい者なら――
フローラのことを聞けるかもしれない。
テオドールが、瞬きをして、意外そうな顔をする。
「君が、絵画に興味があったなんて初耳だな」
「…」
アリシアは、言葉に詰まった。
絵画に興味があるわけではない。
でも、理由は、言えなかった。
「このアテナ、どこか君に似ているな」
ふいに洩れたテオドールのひと言に、アリシアはもう一度、絵の中のアテネを見やる。
髪や瞳の色は確かに同じだが、あまりピンとこなかった。
テオドールが、問う。
「主催者に頼めば会えるはずだ。必要なら、アカデミーの書記官に紹介を依頼するが?」
「…いえ、大丈夫です。行きましょう」
アリシアはテオドールの腕を軽く引いた。
そうして、二人は、広い回廊状の広間を、また歩き出した。
サロン・ド・アポロンは、二年に一度開かれる、王立美術アカデミー主催の美術展だ。
厳正な審査を通過した国内外の画家や彫刻家の作品が、ノーブル宮殿の壮麗なミューズ広間に並ぶ。
高くそびえる天井の所々に備えられた天窓と、壁に連なる大きな窓達が、柔らかな自然光を運び、作品の色彩を豊かに照らし出していた。
ワインや軽食も振る舞われ、華やかなドレスや燕尾服に身を包んだ来場者たちが作品を前に談笑する。
ここは、商談やパトロン支援の約束が交わされる場でもあった。
テオドールもまた、足を止める。
ピアノを弾く女性のまわりに、九人のミューズが集い、竪琴や笛、鼓を奏でて、楽しそうに調和の旋律を紡ぐ、一枚の絵。
輪郭は溶け合い、細部はあえてぼかされ、まるで朝霧の中で揺れる風景のように描かれていた。
「美しい、不思議なタッチの絵ですね」
「ああ、公爵家で支援している画家の一人だ」
「ヘンドリック・リヒトフェルド?モナカ共和国の方かしら」
「ああ」
「国外の方まで、ご支援されているんですね」
「縁があってな」
少しだけ、テオドールの瞳が、悲しそうに見えたけれど、気のせいだったかもしれない。
*****
馬術大会の件以降、テオドールとの関係は小康状態を保っていた。
お互いに過度な干渉はせず、礼儀正しくいられる距離感で過ごす。
味気ないけれど、喜びも悲しみもない平坦な関わりは、平和と表現してもいいのかもしれない。
「では、また金曜日に」
帰り際に、テオドールが言う。
「はい。楽しみにしています」
その言葉に嘘はないけれど、期待は込めていない。
テオドールの瞳は、今日もアリシア自身を見ることはなかったし、特別強い感情を向けられることもなかった。
(これで、いい)
自分を納得させるように、心のなかでつぶやいた。




