馬術大会の親睦会
馬術大会の余韻を引き継ぐようにして、中庭では親睦会が幕を開けていた。
白い天幕の下では、翡翠色のガラスに紅茶が注がれ、隣には淡く輝く金色のワイン。
テーブルには季節の果物と上品な焼き菓子が並び、令嬢たちの笑い声がそよ風に乗る。
その一角で、アリシアはテオドールの腕に手を添え、微笑んでいた。
「親睦会には、来てくれたんだな」
会場を見渡しながら、テオドールがやわらかな声で言う。
「大会中、君の姿が見えなくなって、気になっていた」
穏やかながら、どこか咎める響きを含んだ言葉を、アリシアは胸の奥に飲み込んだ。
「少し体調がすぐれなくて」
笑みを崩さず返すと、テオドールは同じ表情のまま頷く。
馬術大会を抜け出した後、「帰ってしまおうか」という甘い誘惑が、何度も顔を出した。
けれど、親睦会に顔を出さないなんて――婚約者としてあってはならないことだと、どうしても思えてしまった。
ひと通りの挨拶を済ませ、炭酸水を手に取る。
「テオドール! こんなところにいたのか!」
にぎやかな声と共に、友人たちが駆け寄ってくる。
「やっぱり技術賞はお前だったな、ずるいぞ!」
「完璧だったじゃないか!」
歓声と笑いが交差し、テオドールを中心に人の輪が広がっていく。
アリシアも談笑に加わっていたが、足の痛みが次第に強まり、立っているも辛くなった。
笑顔で隠すのも、もう限界だ。
「…少し、席を外します」
控えめに告げると、
「わかった。気をつけて」
と、抑揚のない声が返ってきた。
アリシアは笑みを固め、最後の力で背筋を伸ばす。
凛とした佇まいを崩さぬよう、静かに人々の輪から離れていった。
*****
人目を避け、アリシアは庭園の奥へと足を運んだ。
人の気配は遠く、ここなら誰にも邪魔されずに休めそうだった。
木陰の石造りのベンチに腰を下ろし、周囲に誰もいないのを確かめてから、そろそろとスカートの裾をかき分け、足元を見る。
白い包帯に、じんわりと赤い滲みが広がっていた。
(…やっぱり、ひどくなってる)
ふーっと息を吐き、背もたれに体を預ける。
ふくらはぎの力が抜け、スカートの陰に隠れた足が小さく震えた。
しばらくすると、背後から聞き覚えのある、張りのある声がした。
「…アリシア様?」
アリシアは、はっとして姿勢を正し、顔を上げる。
そこには、深紅のドレスに身を包んだスラリとした女性が、心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「レオノーラ様…?」
いつも社交界の中心にいて、若い令嬢たちの憧れであり、指針とも言える存在――その彼女が、こんな場所に現れたことに、アリシアは思わず瞬きを忘れた。
「…貴方、おひとり?」
「…はい」
アリシアが力のない返事をすると、レオノーラはやおらかに隣へ腰を下ろす。
「どうしてこんな所にいらっしゃるの?」
「…レオノーラ様こそ」
「私は休憩よ。こういう場に長く居すぎると、息が詰まってしまうの」
「…」
「意外そうな顔ね」
「はい…。レオノーラ様は、いつも皆様の中心で楽しそうにされているから」
「貴方からは、そう見えるのね」
「違うんですか?」
「目に見えるものがすべてじゃないわ」
「……そう、ですよね」
「そうよ。…それにしても貴方、今日はずいぶん疲れた顔をしているわね」
アリシアは、あわてて表情を整える。
「やめなさいよ。せっかくの息抜きが、台無しになるじゃない」
肩の力が抜けたような口調に、アリシアの緊張もほどけていく。
ふたりは黙ったまま、庭の灯りを眺めていた。
やがてレオノーラが、ぽつりとつぶやく。
「貴方も、大変ね」
「…大変…なんでしょうか」
「自覚がないのね。肌荒れするわよ」
「ふふっ…。それは困りますね」
ふたりの間に、微笑みが咲く。
それは、静かで、やさしい時間だった。
******
会場へと戻っていくレオノーラの背中を、アリシアは、名残惜しそうに見つめていた。
あとには、彼女の甘い華やかな香りがふわりと漂う。
小さく息を吐き、視線を遠くへ向けた。
天幕の向こうでは、軽やかな音楽が奏でられ、人々はグラスを傾けながら談笑している。
さっきまで自分が立っていた場所が、今は遠い世界の出来事に思えた。
あの場に戻るのは、無理がある気がした。
足の痛みは明らかに悪化していて、長時間の立ち話に耐えられるとは思えない。
無理をして不自然な動きをすれば、かえって周囲の注意を引いてしまう。
それなら、馬車でテオドールを待つのが良い判断かもしれない。
(でも、どうやって馬車まで移動しょう…)
人目を避けて歩ける道を思い浮かべてみたけれど、足の痛みを想像しただけで溜息が出そうになる。
痛みをごまかしながら歩いても、きっと顔に出てしまう。歩き方も不自然になるだろう。
そんな姿で人目を引くわけにはいかなかった。
思案に沈んでいると、庭園の向こうにジュール・モレルの姿が見えた。
思わず、声が出る。
「ジュール様っ」
彼は、声のした方を探すようにきょろきょろと視線を巡らせ、木陰に座るアリシアを見つけると、静かな早足で近づいてきた。
「アリシア様、お一人ですか?」
少し距離を取ったまま、心配そうな目でこちらを見つめる。
「テオドール様をお呼びしましょうか?」
アリシアは顔を伏せて、首を横に振った。
「彼はまだ、あちらで話したいはずだから…」
「では、誰か人を呼びましょう」
アリシアは、ジュールをぱっと見て、
「それは…」
と、つぶやくと、しずしずと俯いた。
公爵家の婚約者として、たとえ使用人や給仕であっても、外部の人間に自分の醜態をさらしたくはなかった。
ジュールが、耳元に届くほどの声でささやいた。
「…僭越ながら、僕にお手伝いできることは、ありますか?」
その言葉に、アリシアは狡賢い自分を恥じながらも、意を決して小さくうなずいた。
「…少しだけ…、馬車まで…、ご一緒していただけますか?」
かすれた声だったけれど、ジュールにはしっかりと届いたようだった。
彼は周囲を一瞥すると、
「少しだけお待ちいただけますか?」
と、足早にどこかへ向かって行った。
間もなく戻ってきた彼の腕には、フード付きのクロークが抱えられていた。
「妹のものですが、使ってください」
ジュールはクロークをアリシアに丁寧にかけると、そっと手を差し出す。
「行きましょう、アリシア様」
アリシアは、顔を隠すように首元の布をぎゅっと握りしめると、彼の手を取った。
ふたりは人気のない小径を選び、中庭の喧騒から遠ざかっていく。
途中、ジュールは給仕を捕まえると、落ち着いた声で告げた。
「ご令嬢は体調がすぐれません。親睦会の終了まで、馬車の中でお休みになられます。
内々に、シャルヴァン公爵家のテオドール様へお伝え願えますか」
その簡潔で的確な配慮に、アリシアは救われたような気持ちになった。
やがてシャルヴァン家の馬車の前にたどり着くと、ジュールは扉を開け、礼儀正しく一礼する。
「どうか、ご無理なさいませんように」
「……ありがとうございます、ジュール様」
アリシアは静かに馬車へ乗り込み、クロークを返すと、ゆっくりと扉を閉めた。
ふうっと深く息を吐き、クッションに顔を埋める。
静けさと柔らかな感触に包まれると、身体の力がすっと抜けていった。
外からかすかに届く賑やかな声が、子守唄のように遠く、やさしく響いていた。