表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/43

馬術大会の親睦会

馬術大会の余韻を引き継ぐようにして、中庭では親睦会が幕を開けていた。


白い天幕の下では、翡翠色のガラスに紅茶が注がれ、隣には淡く輝く金色のワイン。

テーブルには季節の果物と上品な焼き菓子が並び、令嬢たちの笑い声がそよ風に乗る。


その一角で、アリシアはテオドールの腕に手を添え、微笑んでいた。


「親睦会には、来てくれたんだな」


会場を見渡しながら、テオドールがやわらかな声で言う。


「大会中、君の姿が見えなくなって、気になっていた」


穏やかながら、どこか咎める響きを含んだ言葉を、アリシアは胸の奥に飲み込んだ。


「少し体調がすぐれなくて」


笑みを崩さず返すと、テオドールは同じ表情のまま頷く。


馬術大会を抜け出した後、「帰ってしまおうか」という甘い誘惑が、何度も顔を出した。


けれど、親睦会に顔を出さないなんて――婚約者としてあってはならないことだと、どうしても思えてしまった。


ひと通りの挨拶を済ませ、炭酸水を手に取る。


「テオドール! こんなところにいたのか!」

にぎやかな声と共に、友人たちが駆け寄ってくる。


「やっぱり技術賞はお前だったな、ずるいぞ!」


「完璧だったじゃないか!」


歓声と笑いが交差し、テオドールを中心に人の輪が広がっていく。


アリシアも談笑に加わっていたが、足の痛みが次第に強まり、立っているも辛くなった。


笑顔で隠すのも、もう限界だ。


「…少し、席を外します」


控えめに告げると、

「わかった。気をつけて」

と、抑揚のない声が返ってきた。


アリシアは笑みを固め、最後の力で背筋を伸ばす。

凛とした佇まいを崩さぬよう、静かに人々の輪から離れていった。



*****



人目を避け、アリシアは庭園の奥へと足を運んだ。

人の気配は遠く、ここなら誰にも邪魔されずに休めそうだった。


木陰の石造りのベンチに腰を下ろし、周囲に誰もいないのを確かめてから、そろそろとスカートの裾をかき分け、足元を見る。


白い包帯に、じんわりと赤い滲みが広がっていた。


(…やっぱり、ひどくなってる)


ふーっと息を吐き、背もたれに体を預ける。

ふくらはぎの力が抜け、スカートの陰に隠れた足が小さく震えた。


しばらくすると、背後から聞き覚えのある、張りのある声がした。


「…アリシア様?」


アリシアは、はっとして姿勢を正し、顔を上げる。


そこには、深紅のドレスに身を包んだスラリとした女性が、心配そうにこちらを覗き込んでいた。


「レオノーラ様…?」


いつも社交界の中心にいて、若い令嬢たちの憧れであり、指針とも言える存在――その彼女が、こんな場所に現れたことに、アリシアは思わず瞬きを忘れた。


「…貴方、おひとり?」


「…はい」


アリシアが力のない返事をすると、レオノーラはやおらかに隣へ腰を下ろす。


「どうしてこんな所にいらっしゃるの?」


「…レオノーラ様こそ」


「私は休憩よ。こういう場に長く居すぎると、息が詰まってしまうの」


「…」


「意外そうな顔ね」


「はい…。レオノーラ様は、いつも皆様の中心で楽しそうにされているから」


「貴方からは、そう見えるのね」


「違うんですか?」


「目に見えるものがすべてじゃないわ」


「……そう、ですよね」


「そうよ。…それにしても貴方、今日はずいぶん疲れた顔をしているわね」


アリシアは、あわてて表情を整える。


「やめなさいよ。せっかくの息抜きが、台無しになるじゃない」


肩の力が抜けたような口調に、アリシアの緊張もほどけていく。


ふたりは黙ったまま、庭の灯りを眺めていた。


やがてレオノーラが、ぽつりとつぶやく。


「貴方も、大変ね」


「…大変…なんでしょうか」


「自覚がないのね。肌荒れするわよ」


「ふふっ…。それは困りますね」


ふたりの間に、微笑みが咲く。

それは、静かで、やさしい時間だった。



******



会場へと戻っていくレオノーラの背中を、アリシアは、名残惜しそうに見つめていた。


あとには、彼女の甘い華やかな香りがふわりと漂う。


小さく息を吐き、視線を遠くへ向けた。


天幕の向こうでは、軽やかな音楽が奏でられ、人々はグラスを傾けながら談笑している。


さっきまで自分が立っていた場所が、今は遠い世界の出来事に思えた。


あの場に戻るのは、無理がある気がした。


足の痛みは明らかに悪化していて、長時間の立ち話に耐えられるとは思えない。


無理をして不自然な動きをすれば、かえって周囲の注意を引いてしまう。


それなら、馬車でテオドールを待つのが良い判断かもしれない。


(でも、どうやって馬車まで移動しょう…)


人目を避けて歩ける道を思い浮かべてみたけれど、足の痛みを想像しただけで溜息が出そうになる。


痛みをごまかしながら歩いても、きっと顔に出てしまう。歩き方も不自然になるだろう。


そんな姿で人目を引くわけにはいかなかった。



思案に沈んでいると、庭園の向こうにジュール・モレルの姿が見えた。


思わず、声が出る。

「ジュール様っ」


彼は、声のした方を探すようにきょろきょろと視線を巡らせ、木陰に座るアリシアを見つけると、静かな早足で近づいてきた。


「アリシア様、お一人ですか?」


少し距離を取ったまま、心配そうな目でこちらを見つめる。

「テオドール様をお呼びしましょうか?」


アリシアは顔を伏せて、首を横に振った。


「彼はまだ、あちらで話したいはずだから…」


「では、誰か人を呼びましょう」


アリシアは、ジュールをぱっと見て、

「それは…」

と、つぶやくと、しずしずと俯いた。


公爵家の婚約者として、たとえ使用人や給仕であっても、外部の人間に自分の醜態をさらしたくはなかった。


ジュールが、耳元に届くほどの声でささやいた。

「…僭越せんえつながら、僕にお手伝いできることは、ありますか?」


その言葉に、アリシアは狡賢い自分を恥じながらも、意を決して小さくうなずいた。


「…少しだけ…、馬車まで…、ご一緒していただけますか?」

かすれた声だったけれど、ジュールにはしっかりと届いたようだった。


彼は周囲を一瞥すると、

「少しだけお待ちいただけますか?」

と、足早にどこかへ向かって行った。


間もなく戻ってきた彼の腕には、フード付きのクロークが抱えられていた。

「妹のものですが、使ってください」


ジュールはクロークをアリシアに丁寧にかけると、そっと手を差し出す。


「行きましょう、アリシア様」


アリシアは、顔を隠すように首元の布をぎゅっと握りしめると、彼の手を取った。


ふたりは人気のない小径を選び、中庭の喧騒から遠ざかっていく。

途中、ジュールは給仕を捕まえると、落ち着いた声で告げた。


「ご令嬢は体調がすぐれません。親睦会の終了まで、馬車の中でお休みになられます。

 内々に、シャルヴァン公爵家のテオドール様へお伝え願えますか」


その簡潔で的確な配慮に、アリシアは救われたような気持ちになった。


やがてシャルヴァン家の馬車の前にたどり着くと、ジュールは扉を開け、礼儀正しく一礼する。

「どうか、ご無理なさいませんように」


「……ありがとうございます、ジュール様」


アリシアは静かに馬車へ乗り込み、クロークを返すと、ゆっくりと扉を閉めた。


ふうっと深く息を吐き、クッションに顔を埋める。

静けさと柔らかな感触に包まれると、身体の力がすっと抜けていった。


外からかすかに届く賑やかな声が、子守唄のように遠く、やさしく響いていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ