馬術大会の産物 (第1−5章のテオドール視点)
テオドール・ド・シャルヴァンの機嫌は最悪だった。
原因は分かっている。
アリシア・ド・ラモットだ。
テオドールの完璧な婚約者は、どうやら彼の感情を逆撫でする才能まで備えているらしい。
それを知ったのは、昨日のことだった。
馬術大会で、彼は愚かな真似をした。
途中でエスコートをやめ、アリシアを砂利の小径に一人残してきた。
彼女の完璧な仮面が、わずかでも綻ぶ姿を見たい――そんな衝動に駆られたのだ。
振り返れば、滑稽で稚拙な行為だった。
それでも、そうせずにはいられなかった。
そのせいか、馬上でも、つい彼女の姿を探し、無意識のうちに何度も見学席に視線を向けていた。
そして、彼の演技中に席を立つという、彼女らしくない振る舞いを目にしたとき——
完璧に装われた仮面に、かすかな綻びが生じたようで、子どもじみた満足感が、胸の奥をじわじわと満たしていった。
だが、その直後に届いた知らせは、彼の胸に新たな動揺をもたらした。
アリシアが会場まで、ジュール・モレル――『ハンカチを落とした令嬢の兄』にエスコートされていたという。
冷静に分析すれば、感謝すべき状況だったはずだ。
なのに、どうにも胸の奥が騒がしい。
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親睦会が始まると、アリシアはいつものように落ち着いた笑みを湛えていた。
内心、面白くはなかったが、彼女らしくて好ましいとも思った。
だが、そんな思いも束の間、彼女は途中で「少し席を外す」と言い、しばらく戻ってこなかった。
仕方なく使用人に所在を探らせると、レオノーラ嬢と一緒にいるという。
それならば、と、放っておくことにした。
ところが、給仕を通じて不可解な伝言が届いた。
『アリシア様は、ご体調がすぐれず、馬車でお待ちとのことです』
(……ふむ、少し前までレオノーラと居たはずだが…)
あまりにも唐突な変化だ。
丁寧な言付けを残していくところは、いかにも『らしい』。
だが、『馬車で待つ』という選択は、まったくもってアリシア・ド・ラモットらしくない。
何かがあったのだろう。
そう思うと、思わず口元が緩む。
(馬車の中の彼女は、どんな姿をみせているのだろうか…)
*****
馬術競技の余韻と、親睦会のざわめきが徐々に遠ざかる中、彼は馬車置き場へと足を運んでいた。
彼が親睦会を頓挫するのは、初めてのことだったが、そんな『異常事態』を、どこか楽しんでいる自分がいる。
シャルヴァンの名が記された家紋付きの馬車が、月光を受けて、漆黒の側面を鈍く光らせていた。
馬車の扉は閉ざされており、中の様子をうかがい知ることはできない。
それが子供の頃に心を躍らせたプレゼントボックスを連想させ、彼は自嘲気味に、声を漏らして笑った。
御者の一人が彼に気づき、軽く頭を下げた。
「アリシア嬢は、ここに?」
問いかけると、馬車番はうなずきながら答えた。
「はい、少し前に、モレル家のご子息様に付き添われて、こちらへ」
(ジュール・モレルーーまた、お前か。まったく……俺の知らぬところで、親切なものだ)
胸の奥が、誰かに小さな火をつけられたように、じりじりと熱を帯びていく。
苛立ちーーー
そう、そんな名前の感情だ。
わざとらしく肩の埃を払うと、無言のまま馬車の扉に手をかける。
軽くノックし、返事がないのを確認してから、静かに扉を開いた。
そこには、緩やかな呼吸を繰り返しながら、深く眠るアリシアの姿があった。
(なるほど…そうきたか…)
「馬車を出せ。目立たぬよう、静かにな」
従者に低く命じ、扉を静かに閉じる。
従者は少し驚いたような顔を見せたが、すぐに馬を引いて準備に向かった。
「アリシア…」
カーテン越しの月明かりが、アリシアの頬をやわらかく照らしている。
隣に腰を下ろしながら、彼はその寝顔をじっと見つめた。
(無防備だな…)
静かな寝息。柔らかい表情。
起きている時とは、別人に見えた。
そっと指先で頬に触れると、アリシアの顔がわずかに緩んだ。
「……ずいぶん、穏やかな顔をしてるな」
(馬車に乗る前、いったい何があった?
ジュールに、どんな顔を見せた? 何を話した?)
考えるほどに、ざわつく気持ちを抑えられない。
「君は、俺の婚約者だろう?」
そう呟き、アリシアの唇にそっと自分の唇を重ねた。
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そして今日。
『アリシアの体調を心配する婚約者』として、彼はラモット邸を訪れた。
するとまた、絶妙なタイミングで小さな偶然が起こる。
邸の玄関にさしかかったとき、ちょうど郵便配達の男が館から出てくるのとすれ違った。
男の手には、丁寧に麻紐で結ばれた、小さな小包。箱の縁には、銀の箔押しがあしらわれていて、包装紙にも品のいい模様が浮かんでいる。
男が持ち上げた荷札の文字が、風に揺れた瞬間、ちらりと目に入る。
――ジュール・モレル宛。
足を止めるのは不自然だと分かっていながら、視線がその小包に引き寄せられた。
テオドールは、郵便配達の男の背が、並木道の奥へと消えていくまで、それを目で追っていた。
喉元までこみ上げ、吹き出してしまいそうな感情を、静かな吐息としてゆっくりと吐き出す。
彼は、荒れる湖面のようなざわめきに揺れながら、唇を噛むと、薄い笑みを浮かべ、歩みを進めた。
−−−
サロンの扉が開かれると、そこにアリシアがすわっていた。
「……珍しいな。いつもは『お待たせしました』のほうだったろう」
毒づく彼をよそに、アリシアはいつもと同じ調子で微笑み、紅茶を用意する。
「昨日の大会でお疲れかと思って、カモミールを用意したの」
その変わらぬ態度が、また苛立ちを呼ぶ。
「休息が必要なのは、君の方だったと思うが……違うか?」
「…そうね。昨日はごめんなさい。これからは体調に気をつけるわ」
(優秀な婚約者だ…)
大人の対応をする彼女に、子供じみた皮肉をぶつける自分が、心底バカバカしい。
そんな自分に付き合わされている彼女が可哀想にさえ思えた。
「よく眠れたか?」
「ええ、ありがとう」
アリシアが何かを隠すように俯く。
玄関でちらりと見た小包が浮かび、憐憫は静かな怒気に変わる。
「ジュール・モレルとは、知りあいか?二度もエスコートを受けたそうじゃないか」
軽い侮蔑を込めて言った。
「それは……」
アリシアは、何かをいいかけて言葉を飲み込む
「…軽率だったわ。ごめんなさい」
場を納めるような謝罪に、さらなる苛立ちが起こる。
彼の様子を見て、彼女は言葉をつなぐ。
「貴方の婚約者として、振る舞いに気をつけるわ」
全てが、苛立たしく、馬鹿馬鹿しい
「わかった」
これから自分が取る行動が、どんな結果をもたらすか、容易に想像ができるのに、止まれない。
「君も疲れているだろう?今日はこれで、失礼する」
立ち上がり、彼女の前に立つ。
そして、手を差し出した。
「昨日、エスコートを放棄した代わりに、部屋まで送らせてくれないか?」
(そう、俺はわざと君を置いていったんだ)
アリシアは、表情を崩さず、微笑みながら首を振る。
「大丈夫よ。気持ちだけ受け取っておくわ」
(だろうな。だからこそ、引く気もない)
アリシアは、出し続けられる手に、観念するように小さく息を吐いた。
彼女が手を取り、立ち上がる。
その動きに、わずかなぶれを感じた。
右に傾いたような、微かな違和感。
一歩、また一歩と進む足取りも、何かがおかしい。
(左足を引きずっているのか?)
三歩目には、それが確信に変わった。
テオドールは、彼女を抱き上げた。
「テオドール!?」
彼女の驚いた声に、彼は低く短く言う。
「……黙っていろ」
そのまま廊下を抜け、アリシアの部屋へと入る。
ベッドに彼女を静かに座らせると、しゃがみ込み、大きく息を吐いて、乱れた息を整える。
アリシアのスカートの裾を持ち上げると、「きゃっ」と彼女が声を出した。
スカートの中に隠れていたアリシアの左足には包帯が巻かれていた。
アリシアの顔を見上げると、彼女は居心地が悪そうに目をそらした。
「……そういうことか」
恐らく筋書きは、こうだ。
自分と別れたあと、彼女は左足を負傷した。
親睦会で悪化して、歩くのも辛く、立っているのがやっとだったのだろう。
馬車までの移動にも誰かの手助けが必要だったが、それを恥じて動けなかった。
会場までエスコートしたジュールだけが、そのことを知っていた。
だから、彼に、助けを求めたのだ。
テオドールは、アリシアの靴を部屋用のスリッパに丁寧に履かせ変えた。
「……テオドール」
アリシアが、ハンカチで彼の額の汗を拭った。
テオドールは、思わずその手を取った。
「昨日……君は、君の最善を尽くした。そうだろう?」
「……テオドール?」
アリシアは、何も変わってなどいない。
全ては、自分の独り相撲だった。
「すまなかった」
彼女の手の甲にそっと唇を寄せる。
真っ暗な大きな闇の中で、自分が押しつぶされるように小さくなっていくのを感じた。
アリシアに、これ以上その姿を見せたくなくて、彼はそのまま邸を後にした。




