春の王宮舞踏会②
アリシアがバルコニーへ続くガラス扉の前に立つと、扉の向こうに、椅子の背にもたれかかる、ぐったりした様子の青年が見えた。
顔色はひどく悪く、血の気が引いたように青白い。
近くを通りかかった給仕に、小声で声をかける。
「すみません。あの方、具合が悪そうなの。気づかれないように、医務室か控室へご案内できる?」
「かしこまりました、すぐに対応いたします」
給仕はそう返事をして、持っていたお盆を近くの机に置き、青年に近づいた。
青年は、手を借りて立ち上がり、ふらつく足取りでバルコニーから出てくる。
アリシアに気づいた青年が小さく頭を下げ、アリシアも軽く会釈を返す。
彼らの背が人混みに紛れ見えなくなると、ガラス扉を開けて、バルコニーへ出た。
なんとなく、さきほど青年が座っていた椅子には座れなかったので、前方の手すりに手をかけ、中庭を見渡した。
涼やかな夜風が、アリシアの頬をかすめていく。
ふと耳を澄ますと、下の中庭に集まった貴婦人たちの、ひそひそ声が風に乗って届いてきた。
「──あの絵、まだ前王妃様のサロンに飾られているのね」
「ルカ様の絵でしょう?フローラ様を描いたっていう」
「ええ、私も見たわ。あんなことがあったのに、非常識よね」
「先の王妃様のお気にいりだったもの。仕方ないわ」
「それにしたって……」
「あら、表向きには『病気療養』されていることになっているんだし。むしろ外すほうが不自然じゃなくて?」
フローラの名前に、アリシアはどきりとした。
──「前王妃の私的サロン」。
前王妃が愛した美術品が並ぶ小さな一室で、今夜だけ、特別に公開されている。
明日には、それらは撤去され、現王妃のサロンになると聞いた。
(フローラ様…、どんな方だったんだろう…)
アリシアは、バルコニーの影から会場をそっと見やった。
テオドールが、先ほどの男性とまだ話しているのを確認すると、彼らに見つからないように身を縮めて、会場をでた。
心臓がうるさくなって、行かない方がいいと胸の奥で警鐘が鳴る。
でも足は、勝手に歩き出していた。
今回を逃したら、その絵はきっと、二度と表に出ることはないはずだ。
会場から中庭へと通じる石造りの回廊の途中に、白い蔦が絡む石造りの外壁に半月型の窓を持つ建物が見えた。
扉が開け放たれ、人々がまばらに出入りする。
(あそこかな…)
入口に立ち、息を整える。
一歩、ゆっくりと足を踏み入れる。
慎重に中を見渡す。
薄い薔薇色の壁紙に包まれた控えめな空間には、王妃の趣味が反映された美術品が整然と飾られていた。
繊細な彫刻の花瓶、古代のモザイク片を象った飾り皿、銀糸の刺繍が施された布地、壁には数十点もの絵画がかかっている──
歩みを進めると、奥の壁に飾られた十五センチほどの小さな絵の前に、艶やかな黒髪の女性が立っていた。
一歩一歩近づくたびに、香水の甘い香りが鼻先をかすめていく。
レオノーラ・コルヴェール
赤い唇が、絵を見つめたまま動いた。
「……ここには、貴女が見るような絵はないはずよ。歩みをとめず、何事もなかったように進みなさい」
低く、滑らかな声だった。
その言葉が意味することを、アリシアは一瞬で理解した。
アリシアの背中には、噂を餌に生きる貴婦人たちの視線が集まっていた。
――前の婚約者の絵を、今の婚約者がどんな顔で見るのか。
彼女たちの興味は、まさにそこに集中していた。
(絵の存在を無視することも、逆に不自然になるよね…。できるだけ他の美術品と同じ様に扱って、平然としているのよ…)
「ありがとうございます」
すれ違いざま、小声でレオノーラに告げると、絵を一瞥し、他の美術品と変わらぬ調子で通り過ぎた。
背後では、ご婦人たちの物足りなさげなため息が漏れる。
出入り口に向かうまで、同じ歩調で他の美術品を眺め、アリシアは背中を伸ばしたまま外へ出た。
暖かな光のなか、茶色の髪を揺らしながら鍵盤に触れる少女の絵は、アリシアの心にしっかりと焼きついていた。
*****
サロンを出ると、たまたま通りかかったジュリアンに出くわした。
ジュリアンは、歩きかけた足を止めて、目と口を大きく開けて、アリシアを凝視した。
アリシアに向き直ると、サロンとアリシアを交互に指さしながら、魚のよう口をパクパクさせている。
「………みちゃった?」
「はい、みちゃいました」
その様子がおかしくて、アリシアは思わず笑みをこぼした。緊張が少しだけ和らぐ。
「会場に戻ろう」
ジュリアンは、仕方ないなという顔で言った。
「はい」
二人は並んで歩き出す。
「ったく、危ないことするなあ」
「すみません……」
ジュリアンが少し後ろを気にしたかと思うと
「こっち」
と、アリシアの腕を引っ張り茂みに隠れた。
サロンをでたご婦人たちが、話しながら歩いてくる。
「アリシアさん、お気付きにならなかったのかしら」
「さあ?レオノーラさんがあの場にいらしたから、気を取られたのかも」
「でも残念ね。フローラさんがお目当てだと思ったのに」
ご婦人たちが通り過ぎるのを、二人は身を潜めて待った。
「それよりレオノーラさんよ。ずっとあそこに立ちん坊で……まだフローラさんのこと、気にしてるのかしら」
声が次第に遠ざかり、完全に聞こえなくなると、ジュリアンはほっとしたように、ふーっと大きく息を吐いた。
「……何とか、上手くやったんだね」
「……レオノーラ様が、助けてくださって…」
「へぇ…。あの娘がねぇ…」
ジュリアンの言葉が終わらぬうち、ガサガサと葉の擦れる音がして、茂みのさらに奥から人の気配がした。
ふたりが身構えると、そこから現れたのは──
パールカラーのドレスを纏った隣国の王女と、その従者らしき浅黒い肌をした青年だった。
青年は顔を隠すように伏せていたが、すらりと引き締まった細身の体躯は、服越しでも鍛えられているのがわかり、かえって目を引かれた。
どう見ても、親密すぎる距離だ。
王女は一瞬、しまったという顔をしたが、ジュリアンとアリシアをの二人を眺めると、唇に笑みを乗せ、しなやかに首を傾げた。
「お互い、秘密は守りましょうね」
艶めいた声で囁き、踵を返しかけたところで、ジュリアンが涼しい顔でハンカチを差し出した。
「お付の方の唇に、口紅がついてますよ。拭いていかれた方がよろしいかと…」
「まぁ…」と、王女の表情がぴくりと動いた。
それでもすぐに気品を取り戻し、自分のハンカチをすっと取り出すと、従者の唇に優しく触れた。
「これでいいわね…」
王女はくるりとふたりに向き直り、丁寧にカーテシーを一つした。
「ありがとう。では──ごきげんよう」
ドレスの裾を翻し、適切な距離感で従者と会場へ続く回廊へ消えていった。
しばし、沈黙が流れた。
「……君やテオドールといると、どうしてこう、厄介事に巻き込まれるんだろうね」
ジュリアンが呆れたように頭をかいた。
「それは、お互いさまです、ジュリアン様」
アリシアは、反射的に言い返すも、呆然としたまま、王女と従者の消えた先を見つめていた。




