特別な紅茶と透明な婚約者
アリシアは、簡易ベッドが取り払われ、広々とした部屋の静けさに、どこか心細さを覚えていた。
今朝方、マノンは「2カ月間あっという間だったわね!第一、三月曜日の午後よ?またいあましょう」と、言って颯爽と邸をあとにした。
ジュリアンも、社交界や劇場の再開と共に忙しくなり、講師として来るのは月に二回だけになってしまった。
そして、手元にはテオドールからの、通知のような手紙。
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✉️アリシア・ド・ラモット様
先日の嵐の影響により曖昧となっていた、今後の予定について確認いたします。
定期的な面会は、毎週金曜日の午後2時から3時。
場所はラモット邸を希望します。
【2人で出席する予定の催し】
・春の王宮舞踏会
・馬術大会
・美術展観会
夏以降の催しについては、開催が決まり次第、新たに連絡します。
そちらの都合で、当方の同行が必要になった時は、ご連絡ください。可能な範囲で対応いたします。
その他の時間については、自由にしてください。
以上、気になる点がありましたら、お知らせください。
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ベッドに仰向けになり、腕を伸ばした先で両手で持った手紙を、見つめる。
昨日ーー
オペラ自体はとても面白かった。
けれど、あんなに待ち焦がれた婚約者との時間は、どこか空虚で、霧の中にいるような気分だった。
(オペラが始まった頃から、だったかな……)
テオドールの穏やかな微笑みは、どこか上の空で、アリシアの言葉にも、形だけの返事をしていた。
「はぁ……」
(何か失敗しっちゃったのかな……)
終始どこか陰りのあったテオドールの横顔を思い出す。
(首都に戻って間もなくて、疲れていた……それだけだよね…?)
*****
翌週の金曜日、アリシアの切なる願いは、あっけなく崩れ去った。
自宅のサロンの扉を開け、「お待たせしました」と微笑みながら挨拶をする。
ソファに腰掛けていたテオドールは、すっと立ち上がり、「ごきげんよう、アリシア」と、抑揚のない声で応えた。
二か月前、情熱的なキスをした彼は、泡のように消えてしまっていた。
「何か……あったの?」
「どうして?」
「何となく、以前と雰囲気が違うような気がして」
「君には、そう見えるのか?」
「……」
テオドールの冷ややかな返答に、言葉が出なかった。
アリシアは、気持ちを立て直し、柔らかく笑った。
「お茶を淹れますね。何かお好みはありますか?」
「……ダージリンをもらおう」
「はい」
丁寧な手つきで紅茶を淹れる。
途中、ふと視線が合った。
アリシアが微笑むと、テオドールはじっと、何かを確かめるようにこちらを見つめ返してくる。
どこか熱を帯びた眼差しに、胸が高鳴った。
けれど――
その視線が自分を通り抜けて、『別の何か』を見つめているのだと気づいた瞬間、
そのささやかな期待は、音もなく霧散した。
まるで、自分が透明人間にでもなったような気分だった。
マノンから習った、けれど沈んだ気持ちで淹れてしまった『特別な紅茶』を、テオドールに出す。
「うまいな…」
テオドールが、驚き混じりで独り言のようにいった。
「ありがとう」
アリシアは、心にもない言葉を返した。
当たり障りのない会話がポツポツと交わされた。
テオドールが絶やさなかった微笑は、どこか無機質で、アリシアには、それが妙に冷たく感じられた。
午後三時。
置き時計が澄んだ音を鳴らす。
テオドールはすっと立ち上がると、
「……時間だ」
と、言い残して、振り返ることもなく部屋を去った。
アリシアはその背を見送りながら、細長く息をはいた。
机に頬杖をついて、ぼんやりと窓から見える景色を眺める。
指で唇をなぞりながら、テオドールとの初めてのオペラ座の記憶を呼び起こした。
(あの夜は、神様が見せてくれた一夜限りの夢だったのかな…)
そう自分に言い聞かせながら、テオドールへの淡い期待を、胸の奥底までしまい込んでいった。




