創立記念公演② テオドール視点
ボックス席の前で足を止めたテオドールは、案内役へ穏やかに微笑むアリシアを見ていた。
案内役は軽く会釈し、手際よく入り口のカーテンを脇へ払う。
そのまま二人で中に足を踏み入れると、彼女はふと立ち止まり、劇場全体を見渡した。
高い天井に吊るされた綺羅びやかなシャンデリア、深紅の重厚な幕に覆われた舞台、淡い光に包まれた観客席――ひとつひとつを確かめるように目を走らせる。
やがて、彼女は落ち着いた物腰で席に腰を下ろした。
背筋は自然に伸びているが、膝の上に重ねた手はややほどけ、ゆとりがあった。
テオドールも、ゆっくりと背もたれへ体を預けた。
足を組むでもなく、どこか無造作な仕草で、肘を片方の肘掛けに載せ、視線を舞台の方へと流した。
創立記念公演の幕開けとして、『バイオリンの至宝』ジュリアン・ド・モンリヴォーが、一曲を披露することになっていた。
『前座』というにはあまりに贅沢すぎる演出。彼の演奏を目当てに訪れた客も少なくない。
開演の鐘が鳴り、劇場内の明かりがゆっくりと落ちる。
天井のシャンデリアが、残されたわずかな光を舞台中央に絞り込む。
その一点に照らされるようにして、黒の燕尾服に身を包んだジュリアンが、舞台袖から現れた。
客席のあちこちで、悲鳴にも似た歓声が上がる。
ジュリアンは片手を低く持ち掲げ、下に向けた掌を小さく上下させ、観客の興奮をコントロールする。
場内は静まりかえる。
そして、ジュリアンのヴァイオリンの透明な音が響きわたった。
ヴァイオリン独奏による『夜の女王のアリア』
原曲とはまるで異なる華麗な編曲で、技巧と表現力を尽くした、まさに『ジュリアンのための一曲』だった。
ひとたびジュリアンが奏でる音が空間を満たすと、吸い込まれたように、一音一音に、観客の意識は引き寄せられ、誰もが息を殺して聴き入る。
隣に座るアリシアも、舞台にいるヴァイオリン奏者に釘付けにされていた。
そして、テオドールは、気がついた。
アリシアがジュリアンをみつめるその瞳に、その他大勢にむけられるそれとは違う色が宿っていることに。
それが、異性への関心ではないことはわかっている。
家族を見守るような、あたたかさをたたえた眼差し――。
それでも。
再会後に初めて見る彼女の『特別な視線』が、自分ではなく、ジュリアンに向けられていることが、どうしようもなく癪に障った。
演奏が終わると、会場は拍手と歓声の嵐に包まれた。
「ブラヴォー!」
「ジュリアン!」
歓声が飛び交い、場内の熱は最初の幕が開く前から最高潮に達していた。
だがアリシアは、どこか安堵したような、そして少し誇らしげな顔をして舞台を見つめていた。
ジュリアンが舞台から捌けると、彼女は、ゆっくりとテオドールの方へ向き直った。
「やっぱり、ジュリアンのヴァイオリンはすごいですね」
そういう彼女に、かつての面影が、ふと重なった。
以前は、彼女の瞳の奥に、自分という存在が広がっていく――そんな錯覚すら抱いていた。
名を呼ぶたび、視線を交わすたび、アリシアはたやすく頬を染め、息を詰め、瞳を潤ませていた。
まるで、自分の存在全てが、彼女の体温を上げていたかのように。
だが、その姿は、すぐに霧のように消えていった。
今目の前にあるのは、
春の日差しのように穏やかな、落ち着き払った、品のいい女性だった。
かつて自分を射抜いた、あの焦がれるような眼差しは──もう、どこにもない。
胸の奥から言葉にならない感情がせり上がった。
怒りとも、悲しみともつかないそれは、慟哭に近かったかもしれない。
『序曲』の演奏が始まり、オペラ『魔笛』の幕が開ける。
けれど彼には、演劇を楽しむ余裕など、どこにも残っていなかった。
*****
帰りの馬車に揺られながら、テオドールは、どこか満たされない鬱屈した心を持て余していた。
婚約者の、模範解答のようなオペラの感想に、作られた気品と笑顔。
ポケットの中で折りたたまれた彼女からの手紙を、指でなぞりながら、窓の外を眺め、冷ややかな微笑で相槌をうつ。
悪いのは彼女ではない。
目の前にいる彼女の姿を受け止めきれずにいる自分に、どうにもならない居心地の悪さを覚え、全てが、気に入らなかった。
そう、こんな気持ちになったことが前にもあった。
――前婚約者が駆け落ちしたと知った、舞踏会の夜。
フローラの家の玄関ホールで彼女を待っていた、あの時。
彼女の書き置きをみつけた使用人たちが慌ただしく走り回り、彼女の両親が地べたに這いつくばって謝罪する。
その光景は、今も記憶にこびりついている。
後日、ただの衝動ではなく、本当に駆け落ちだったことが確認されると、様々な事務手続きに追われた。
あの、煩雑で、屈辱的で、忌々しい日々。
ーーーアリシア
この女は、きっとそんな突飛なことはしないだろう。
窮屈な演技を強いられても、黙って従い、与えられた役を全うしていく。
……ならば、それで十分なのではないか。
それ以上、何を求める必要がある?
テオドールは、自分の心のざわつきが徐々に静まり、奥底へと沈んでいくのを、まるで他人事のように見つめていた。
それがすべて押しつぶされ、暗い安心感が心を支配すると、彼はゆっくりとアリシアの方へ視線を向けた。
「アリシア、もう、マノンは必要ないだろう。月二回の巡回に切り替えよう。君は十分だ」
感情も抑揚もない、静かな声だった。
アリシアは、少しの空白を経て、柔らかく微笑んだ。
「…そう、ですよね……少し淋しいけれど、仕方ないです」
その声にも、感情は乗っていなかった。




